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十.追想 ~喜びをくれた花~ ―7


そうして、旅は始まった。


まずは、汽車に乗るために駅に行く必要があった。


季節は初冬。

好天に恵まれたことを感謝しつつ、時おり休憩をはさみながら駅を目指す。


ここ数日の間ずっと集中的に訓練したおかげで、だいぶ車椅子の扱いにも慣れることができた。


平地なら、自分の力だけですいすいと進むことができる。


けれど、坂道やがたがたとした道に差しかかると、梔子の手も借りなければ進むことが難しかった。


「紅月さん。この先は上り坂になるので、私も後ろから押しますね」


どうやら梔子は、車椅子を押して歩くのに慣れているらしかった。


自力で進むのが難しくなると、紅月が何も言わなくても、彼女はさっと動いて介助をしてくれる。


駅まではかなり距離があったし、一人では進めない道も多かった。

梔子がいてくれなければ、間違いなく紅月は道の途中で行き詰まっていたはずだ。

それを思えば、彼女にかけるべき言葉など、一つしか思い浮かばない。


坂道を上りきり、再びなだらかな道になったところで、紅月は背後を振り返った。


梔子はまだ車椅子を押してくれている。


「梔子。ありがとう。貴女のおかげで、今日は外に出ることができた。本当に、感謝している。面倒なことに関わらせてしまって、申し訳ないが……」

「いいえ。こんなことくらい、大したことではありません。これくらいで紅月さんのお力になれるのなら……その、えっと……よかった、です」


たどたどしく話す梔子の声には、照れが滲んでいた。


梔子は、自分から進んで話すような性格ではない。

それでももう少し彼女と話していたくて、平静を装いながらも必死に話題の切り口を探す。


「その……さっきから思っていたんだが、貴女は車椅子を押すのに慣れているんだね」

「えっ? あ、そ、そうでしょうか……?」


やはり梔子は筋金入りの口下手らしい。

もじもじとした様子で、彼女は黙り込んでしまう。


けれどどうやら、次に続ける言葉を思いつくのに時間がかかっていただけらしい。


しばらく経って、彼女はもう一度話し始めた。


「……小学校に入った頃から、少しずつ、手伝わせてもらえるようになったんです。父さまと母さまみたいになりたくて……今は、このくらいしかできないですけど」


梔子の話によると、母の佳江(よしえ)は、結婚前は智行のもとで看護師をしていた女性だったのだという。


医者の父と看護師だった母に憧れ、梔子は徐々に病院での仕事を手伝うようになったらしい。


そうして他愛もないことを話していると、どこからか甘い香りが漂ってきた。


「この香り……蝋梅(ろうばい)ですね。あ……、きっとあそこです」


梔子はその場に車椅子を止めると、紅月の隣に来て、視線で前方を示した。


彼女の視線をたどると、街路沿いに建つ屋敷の庭に、蝋梅の木が花をつけているのが目にとまる。


薄黄色の花は、冬の柔らかな日差しを透かして、ほんのりと光を帯びているように見えた。


「蝋梅の花は綺麗で、香りもよくて、飾るだけでも素敵ですけど……薬にもなるんです。花からとれた油は、火傷の薬や、熱を下げるのにも使うことができて……」

「……詳しいんだね」


紅月が感心して言うと、梔子は照れたようにはにかんだ。


普段から病院に飾る花を摘んでくることの多い彼女だ。

花に関することには、かなり詳しいのかもしれない。


そんなことを考えていると、ふと、思い出したのは生前の夕弦の姿だった。


「兄上も……花にはかなり詳しかったな」

「紅月さんのお兄さま……ですか?」

「ああ。兄上はよく、庭仕事をしていたから……。庭に咲く花で名前のわからないのがあると、尋ねれば何でも答えてくれた」


屋敷内の下働きを命じられていた夕弦は、庭仕事や薪割りといった力のいる仕事をさせられていることが多かった。


けれど庭仕事だけは時を忘れて打ち込めると、楽しそうに語っていた姿を思い出す。


……不思議だ、と紅月は思った。


今まで、死んだ兄のことを思い出すと、つらく苦しくて仕方がなかった。


あの時、もっと早く、屋敷に帰っていれば。

もっと早く、夕弦を病院に連れていくことができていれば。


いや、そもそも、夕弦は断固として止めてきたけれど、やはりあの幼い日の言葉通りに、自分の腕を折っていればよかったのではないか……。


何か一つでも紅月が別の行動を取っていれば、兄が無惨な死を遂げることはなかったのではないか。


そんな思いに駆られることなど、数え切れないほどだったというのに。


……けれど今、不思議なことに、つらく悲しい思いは湧いてこない。

それどころか、兄に可愛がってもらった優しい記憶を、懐かしく思い返すことができていたのだった。


そういえば、と紅月は思い出す。


「兄上は、花言葉、なんてものにも詳しかったな。西洋から伝わってきたもので、花に意味を持たせる風習だそうだ。たとえば、そうだな……藤の花だと、(つる)がしっかり巻きつく姿から、〈決して離れない〉という意味があるとか。薔薇(ばら)の花だと、本数によっても意味が変わってくるらしい」


話しているうちに思い出したのは、庭に咲いた薔薇の花を眺めながら夕弦が教えてくれたことだった。


――紅月。花言葉はたくさんあるが、中でも薔薇がとても面白いんだ。相手に渡す本数によって、意味が変わる。たとえば一輪だと……


ふとその時、紅月は思い至る。


「……梔子。貴女の名前は、花の名前だね」

「はい。私が生まれた頃は、ちょうど梔子の花が綺麗に咲いている季節だったそうで。私の髪の色に似ているのと……それから、とてもいい意味を持つ花だからと、名付けたそうです」

「となると……貴女のご両親も花言葉を知っていたんだね」

「たぶん、母ですね。私が幸せになれるようにと、願いをこめてつけたのだと教えてくれたことがあったので」


梔子の花。

どんな花言葉だっただろうと記憶をたどったが、思い出すことはできなかった。


(兄上なら、きっと知っていたのだろうな……)


後で、調べてみようか。

そんなことを考えながら、隣に立つ梔子に目を向ける。


「そろそろ、行こうか」

「はい」


路を進みながら、蝋梅の花を見上げる。

小春日和の風に吹かれ、薄黄色の花は優しく揺れていた。



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