十.追想 ~喜びをくれた花~ ―6
それから十日が経って。
身支度をすませた紅月は車椅子に乗り、病室で智行を待っていた。
ついに今日、紅月は久しぶりに外へ出かける。
十日前、駄目元で願い出た外出の許可が、条件付きで下りたからだ。
あの時、智行はしばらく考え込む様子を見せたが、やがて頷いて言った。
『……わかった。が、目的と行き先を聞いてもいいかな。きみはまだ車椅子がなければ移動できないからね。あまり遠くに行くようでは許可できない』
『帝都です。一度、家に戻っておきたかったのと……今後のことを、そこで考え直したいと思ったので』
『なるほど……』
両親が相次いで亡くなった後、篁家の屋敷はそのままになっていると聞いていた。
完全に放置されることがなかったのは、家主が亡くなった後も家令が出入りし、管理してくれていたためらしい。
紅月の祖父の代から篁家に奉公していた家令で、義理堅く、入院する紅月に関して病院とやり取りをしてくれていたのも、弦月と依鈴の葬儀を取り仕切ってくれたのも、彼だったようだ。
篁家と、そして紅月自身の今後について。
一旦家に戻り、よく考えた上で決める必要がある。
そう思い、紅月は智行に外出の許可を求めたのだった。
(梔子と話すのは……それからだ)
梔子は、紅月の今後のことを真剣に案じてくれていた。
であれば、絵を続けるのかやめるのか、判断を下す。
その上で彼女に会い、謝罪をした上で話したかった。
けれどそんな紅月の考えは、まもなく病室にやってきた智行――そして梔子の姿を見たことで、すべて覆ってしまう。
「……え」
「やあやあ! おはよう、紅月くん! その様子だと、支度はもうできているようだね」
……やあやあ、じゃない。
まさか、という思いが湧き起こる。
「……先生。私はここで待っていれば、付き添い人が来ると聞いていたんですが」
智行が出した、外出の条件。
それは一人では出かけず、必ず付き添い人と行動をともにすること、というものだった。
付き添い人は当日までに智行が選ぶと聞いていた。
てっきり看護師の誰かをつけるものかと、そう思っていたのだが……
紅月の考えを読み取ったかのように、智行が言った。
「残念ながらみんな忙しくてね。梔子に声をかけたら引き受けると言ってくれたから、頼むことにしたんだ。だからこの子がきみの付き添い人だよ。きみももうわかっての通り、梔子は小さいけれどしっかりした子だ。きみ達二人で、協力し合って行ってきなさい」
「い、え。待ってください、先生。ですが――」
外出にまで付き合わされるなど、どう考えたって梔子に迷惑だ。
それにそもそも、まだ紅月は、梔子に謝ることもできていないのに。
しかし智行は紅月の声を遮って言った。
「紅月くん。いつまでももやもやしたままでは、きみもこの子も、お互いに苦しいだけだろう。今、きちんと話し合っておくんだ」
すると、智行の後ろに半ば隠れるようにして立っていた梔子が、そっと紅月の前に出てきた。
梔子は緊張のためかわずかに身体を震わせていたが、やがて心を決めたのか口を開いた。
「あ、あの……! 私、この前は、本当に――」
「待ってくれ」
梔子が謝罪の言葉を口走ろうとしているのを、紅月はとっさに止めた。
彼女はよほど驚いたのか、顔を上げ、目を見開いて紅月を見ている。
「梔子。……謝らなければならないのは、私だ。私は、貴女に……ひどい言葉を言った」
「紅月さん――」
「許してくれ、梔子。本当に、すまなかった」
梔子に向かって、頭を深く下げる。
けれどすぐに、彼女の慌てふためいた声が聞こえてきた。
「あ……い、いえ! お願いです、謝らないでください……!」
頭を上げ、視線を向ければ、梔子は何かを言いたげに口をぱくぱくと動かしていた。
やがて彼女は、ふるふると首を横に振って言う。
「私が悪かったんです。紅月さんのご事情を何も知らないのに、勝手なことばかり言って……」
「いや、貴女は何も悪くないよ。悪いのはすべて私だ。貴女の言葉が図星だったからこそ、つい苛立ってしまって……」
「でも――」
「だが――」
お互いに自分が悪いと言って譲らず、堂々巡りになりそうになった会話を、はたで聞いていた智行が断ち切る。
「はいはい、そこまで! このままにしていたらきみ達はいつまでも同じ話を続けていそうだからね。仲直りできそうなら、それでいいんじゃないのかい?」
「…………」
「…………」
しばらくの間、梔子と見つめ合う。
紅月を見つめてくる瞳は、不安そうに揺れていた。
脳裏をよぎったのは、梔子の泣き顔だ。
彼女を泣かせてしまったことを思うと、今だって激しい後悔が襲ってきて、胸が焼けつきそうなほどだった。
「……梔子」
「はい」
「貴女を傷つけておいて、虫のいい願いだとわかっている。それでも……仲直り、してもらえるだろうか」
「……! はい……!」
その瞬間、梔子が見せた表情に、思わず息を呑んで見入ってしまう。
まるで、春を迎えてぱっと咲き開いた花のような。
彼女が浮かべていたのは、そんな、心から嬉しそうな笑顔だったのだから。




