十.追想 ~喜びをくれた花~ ―4
「紅月さん」
梔子が声をかけてきたのは、それから数日経った頃のことだった。
梔子は、何か覚悟を決めたような、張り詰めた表情をしていた。
彼女はやがて、手に持っていたものをこわごわと紅月に差し出してくる。
「これを……」
わけもわからず受け取って、それからまもなく、思考が止まった。
梔子が渡してきたもの。
それは、小さな紙箱に入った色鉛筆だったのだから。
「……なぜ、こんなものを」
尋ねた声は、自分でも驚くほどに低かった。
梔子は一瞬、肩をびくりと震わせる。
けれど彼女は、紅月に怯えた様子を見せながらも、懸命に答えようとしていた。
「……つらそう、だったからです」
「は……?」
梔子の言っていることの、意味がわからない。
すると梔子は、立て続けに言葉を重ねてきた。
今までに見てきた、大人しく言葉数の少ない姿からは信じられないほどに。
彼女は必死に、紅月に向かって言いたいことを話そうとしていた。
「塾長さんが、言っていました。怪我をするまで……紅月さんは誰より一生懸命、楽しそうに、絵を描いていたって……。でも……でも、今の紅月さんは、ずっとつらそうで、見ていられないから……!」
「何を……」
「本当は、今だって……、紅月さんは、絵のことを忘れてなんかいない。本当は、描きたいから……描くことを、あきらめられないから。だから紅月さんは、そんなにも苦しそうなのではありませんか――」
「――黙れ!」
気づけば、激高するままに大声を張り上げていた。
梔子は、今にも泣き出しそうに顔を歪め、それでも紅月から目をそらそうとはしない。
こんな小さな女の子に怒鳴り声をぶつけるなど、許されない。
頭ではわかっていたし、どうにか感情を抑えつけようとした。
けれど自制は完全に吹き飛び、自分ではもう、どうすることもできなかった。
「……貴女に、何がわかる」
帰ってくれ。
心の中では、梔子に向かって、そう必死に念じていた。
今すぐに、帰ってくれ。
ここから立ち去ってくれ。
でなければ紅月は、彼女にどんなひどい言葉をぶつけるかわからない――
「……失せろ」
そうして吐き捨てた言葉の冷酷さに、目眩がしてくるほどだった。
ついに梔子の瞳からは涙が零れ出す。
彼女は色鉛筆の箱を抱え、泣きながら部屋を出て行った。
走り去る足音が遠ざかり、聞こえなくなった途端。
頭から爪先まで嫌悪感が広がり、いっそ自分を殺してしまいたい衝動に駆られた。
……否が応でも、気づかされる。
あんなにも梔子の言葉に反応してしまったのは、彼女の言っていたことが、まぎれもない事実だったからだ。
兄を苦しませておいて、死なせておいて、まだなお、紅月は描くことを捨てられない。
描くことを、他の何よりも渇望してしまっているのだと……
その翌日、梔子は姿を見せなかった。
思えば彼女は、初めて出会った頃――紅月がまだ動けずにいた頃から、ほとんど毎日のように顔を出してくれていた。
それなのに紅月は、ずっと心配してくれていた彼女に、あまりにもひどい仕打ちをしてしまった。
……後悔しても、し切れない。
けれどその一方で、これでよかったのだという思いもあった。
あれだけひどい態度を取ったのだ。
梔子はもう、紅月と関わろうとはしないだろう。
それでいい。
絵を描くことはおろか、自分の世話すら一人ではままならず、苛立ちが極まれば他人に冷たく当たり散らす。
紅月は、誰がどう見たって最低としか言えない人間に成り下がってしまった。
これ以上はもう、そんな自分に関わってほしくない。
それが、心優しい彼女にとって一番いいことなのだと、心からそう思う――
「ちょっといいかな、紅月くん。きみに話があるんだよね」
夕刻。
梔子の代わりに現れた智行は、いやににこにこと微笑んでいた。
しかしわざとらしいほどの笑顔に反して、目は少しも笑っていない。
こめかみに青筋が見えたような気がしたのも、おそらく目の錯覚ではないのだろう。
智行は何かを言おうとしてはやめるような動作を何度か繰り返していた。
けれどやがて、はあ、と深く息をつき、寝台脇にある椅子に腰掛けながら言った。
「紅月くん。きみにお願いがあってね。僕の娘のことだ。あまりあの子につらく当たらないでやってくれるかな」
智行に責められることは覚悟していた。
愛娘が落ち込んでいるのを見て、彼が黙っているわけがないことは、火を見るより明らかなことだ。
「……申し訳ありません」
しかし予想に反して、智行にはそれ以上、紅月に詰め寄る気はないらしかった。
紅月はあまりにも理不尽に梔子を突き放したのだ。
智行に怒鳴られようが、果ては病院を追い出されようが、当然のことだと思っていたのに。
「あの子は、できればきみに会って謝りたいと言っていたよ。無神経なことを言って、きみを傷つけてしまったから……とね」
「は――……?」
今度こそ、愕然とした。
「だが、もしかしたら紅月くんはもう、梔子の顔なんか見たくないと思っているかもしれない。もしそうだったら、直接謝るのは諦める。もうきみのところには行かないようにする、とも言っていた」
「……人がよすぎる」
思わずそう呟いてしまっていた。
だって梔子に非などない。
謝罪をするなら紅月の方だというのに。
「きみもそう思うかい? そうだよ。梔子は……あの子は、すごくいい子なんだ」
それから、智行は梔子のことをゆっくりと語り聞かせてくれた。
初めて会ったあの日から、梔子はとりわけ紅月を気にかけてくれていたこと。
紅月が動けるようになった時や、言葉を交わせるようになった時、彼女はそれを、まるで自分のことのように喜んでくれていたのだということ……




