十.追想 ~喜びをくれた花~ ―2
紅月が以前のように食事をとるようになったのは、その翌日からのことだった。
智行はよくよく念を押すように紅月に言った。
「いいかい、紅月くん。またもとのように生活したかったら、きみはしっかり体力をつけなければならない。この数か月で、きみの身体はすっかり痩せ細ってしまったからね」
出された食事は、機械的に食べた。
おいしいとも、まずいとも感じない。
ふと、視界の隅に映ったのは、ぼさぼさに伸びきった髪だった。
触れてみれば、長らく水で洗っていない髪は、ぺっとりとして汚れている。
続けて顔に手を触れてみれば、干からびたように頬がこけ、眼窩が落ち窪んでいるのがわかった。
鏡を見なくたってよくわかる。
(……ひどい有様だな)
幼い頃から今までずっと、美しい、美しいと褒められながら育ってきた。
けれど今の紅月の姿を見れば、きっと誰もが顔をしかめ、鼻をつまみながら去っていくことだろう。
それからまもなく、脳裏によぎったのは梔子の姿だった。
紅月に嬉しそうに笑いかけてくれた、彼女の――
……なぜ、と思う。
なぜ彼女は、こんなにも汚れ、醜くなった紅月にも、優しく微笑みかけてくれたのだろう。
「紅月さん」
ふいに聞こえた声に、紅月ははっとして顔を上げた。
見れば、扉の前に立っていたのは梔子だった。
今はまだ、正午前だ。
梔子が顔を見せるのは、いつも決まって、昼下がりを過ぎた頃だというのに。
紅月の疑問に答えるように、彼女はたどたどしく答えた。
「えっと……今日は学校がお休みで。父さまに、お手伝いを頼まれたのです。……紅月さん」
次の瞬間、真剣な表情を浮かべ、意を決したように梔子が口にした言葉に、紅月は一切の思考を忘れる。
「髪を……、紅月さんの髪を、洗わせてもらえませんか」
どうやら今日は、人手が足りていないらしい。
そういえば、今朝早くに急病人が運ばれてきたようで、智行も看護師達も慌ただしくしていたのを思い出す。
そういう時、梔子はたびたび、できる範囲で患者の身の回りの世話を手伝ってきたらしかった。
(だが、だからといって……)
本当なら、洗髪ぐらい、人の手を借りずにやりたかった。
それに。
「……梔子」
病院の裏庭。
梔子は手早く桶に水を汲み、石鹸や手ぬぐいの準備をすませていた。
きっと何度も、こうして患者の洗髪の手伝いをしてきたのだろう。
紅月に名を呼ばれた梔子は、大きく目を瞬いた。
おそらく、紅月から初めて名を呼ばれたことに驚いたからだろう。
……普通に、声を出すことができた。
以前のような声が出たことに安堵するが、まもなく彼女に話しかけた目的を思い出す。
「……やはり、自分でやるよ。貴女の手を煩わせたくない」
梔子の迷惑になりたくないというのは、本当だ。
けれど実のところは、ただ、汚い髪を彼女の手に触れさせたくないだけだった。
……どういうわけかは、わからない。
ただ、汚れたところやみっともないところを、彼女には見てほしくない。
なぜだかそう思ってしまう自分を、紅月は自覚せざるを得なかった。
梔子はしばらく言葉に詰まっていたが、やがて申し訳なさそうに口を開く。
「……ごめんなさい。父さまに言いつけられているのです。手の傷の治りが悪くなるから、紅月さんには洗わせるなと」
手の傷。
今もガーゼをあてた手を、苦々しい気持ちで見つめる。
塗布された薬が効いたためか、腫れは昨日より引いていた。
けれど毒は抜けきっていないようで、痛みもかゆみもまだしつこく残っている。
水に触れるなと智行が言ったのならば、嫌でもそれに従うしかない。
「わかった。……すまない。汚い髪に、触れさせてしまって」
「いいえ! あの、丁寧に洗いますから……その、よろしくお願いします」
思った通り、梔子は手際よく、慣れた様子で洗髪を進めていった。
石鹸を泡立て、頭や髪になじませていく。
ふいに、くいっと頭が引っ張られたかと思うと、梔子は慌てて謝ってきた。
「あっ、ご、ごめんなさい! 引っかかってしまって……」
紅月は黙って首を横に振った。
当然だろうな、と思う。
もう何か月も、水で洗うどころか梳かすこともなかった髪だ。
もつれ、絡み合ってしまって、ほぐすだけでも一苦労だろう。
死ぬこともできず、これからどうしたらいいのかもわからない。
それどころか、こんなに幼い少女の手を借りなければ、自分の世話すらまともにできない。
……堕ちるところまで、堕ちた。
心の裡に広がっていくのは、そんな投げやりな気分だった。
「……あの」
梔子に声をかけられたのは、そんな時のことだった。
「紅月さんは、ずっと絵を描かれていたんだって、聞きました。その……どのような絵を描いていたのですか?」
「…………」
それは、口下手な彼女が、どうにか紅月と会話をしようと精いっぱい考えてくれた質問だったのだろう。
けれど、今は何も、話す気にはなれなかった。
絵に関する話題ならば、なおさらだ。
「……それは、貴女に関係のあることなのか?」
気づけば、そんな冷淡な言葉を返していた。
こんなのは、ただの八つ当たりだ。
そう思っていても、避けたかった話題を持ち出された苛立ちから、言葉を止めることができなかった。
「私の以前のことなど、知ってどうする。……貴女には、関係ない」
「あ……」
しばらくして、はっと我に返った。
世話をしてもらいながら、なんて厚かましい言い草だろう。
――謝るべきだ。
けれど、そう思って出しかけた声は、明らかに動揺している梔子の声に遮られてしまった。
「あ、その、そうですよね。ごめんなさい……踏み入ったことを、訊いてしまって」
違う。
梔子は、何も悪くない。
謝るのはどう考えても紅月の方だ。
けれど結局、彼女に謝罪をすることはできず……




