十.追想 ~喜びをくれた花~ ―1
それからというもの、梔子は毎日のように紅月のいる部屋を訪れてきた。
梔子が病院の手伝いをしているというのは、どうやら本当らしい。
彼女はいつも、季節の花を手に抱えていた。
摘んできた花を、患者のいる病室の花瓶に飾る。
それが、まだ幼い彼女に任された手伝いの一つのようだった。
「紅月さん。窓……開けますね。今日は、その……風が涼しくて、とても気持ちがいいですから」
何の反応もしない紅月に、梔子は勇気を出して話しかけてくれているようだった。
彼女の言葉通り、窓からは涼しく快い風が吹き込んできた。
風はうっすらと金木犀の香りがして、すでに季節は秋になっていることが窺い知れる。
父親と違って、梔子はかなり大人しい性格のようで、言葉数は少なかった。
時々診察に訪れる智行のようにぺらぺらとしゃべり倒すことはない。
少しだけ紅月に話しかけた後は、ただ黙ってそばにいるか、しばらくの間、持ってきた本を読んでいるかのどちらかだった。
「……また、来ます。紅月さん」
別れ際、かすかに微笑んで口にする言葉の通りに、梔子は毎日のように紅月の病室に来てくれた。
紅月のことなど、放っておいてくれればいいのに。
欠かさず顔を見せてくれる梔子に対し、次第にじわじわと湧き起こってきたのは罪悪感だった。
紅月はもう、何日も、何か月も動けず、話せずにいる。
それなのになぜ彼女は、懲りもせず、飽きもせず、毎日見舞いに来てくれるのだろう。
……病室には、優しい花の香りが漂っていた。
梔子が持ってきてくれた花だ。
紅月に見える位置に置いてある花瓶には、橙色の小さな花をたくさんつけた、金木犀の枝が飾られている。
「紅月さん。また、来ますね」
梔子が、行ってしまう。
見舞いに来てくれたことに、花を飾ってくれたことに、紅月はまだ、お礼一つ告げていないのに。
「…………」
喉に精いっぱい力を込めた。
こわばった口を必死に動かそうとした。
けれど、もうずっと動かさずにいた身体は、言うことを聞いてはくれなくて。
扉が締まる。
梔子が去った扉を見つめながら、紅月は一人、自分を責めた。
今や声一つすら出せなくなった弱い自分が、情けなくて、厭わしくてならなかった。
そんなことが、何日も、何日も続いて――
その日もまた、梔子は姿を見せた。
彼女が持っていたのは、あざやかな赤い山茶花だ。
いつものように、梔子は花瓶に花を飾ろうとして……
「――……」
葉の裏でうごめくものに気づいて、紅月は愕然とする。
あれは、毒蛾の幼虫だ。
梔子が気づいている様子はなかった。
幼虫がいるのは葉の裏で、梔子からは見えなくなっているのだろう。
強い毒を持つ虫だ。
もし、彼女が知らずに触れてしまったら――
考えるよりも先に、身体が動いていた。
声にならない声を上げ、寝台を飛び出して、錆びついた道具のように軋む腕をとっさに梔子の方へと伸ばす。
もろともに床の上に倒れ、紅月は彼女の手から山茶花の枝を奪い取った。
その拍子に幼虫に触れてしまったのだろう。
手の甲に細かな針先で突かれたような痛みが走る。
梔子はまもなく状況を理解したらしい。
「紅月さん……! 今、父さまを呼んできます……!」
手を押さえて顔を歪める紅月を見て、彼女は血相を変えて部屋を出て行った。
まもなく駆けつけてきた智行は紅月の手をさっと見ると、連れてきていた看護師に指示を出す。
「毒蛾の幼虫が原因か。その花を気をつけて外に出してくれ。それから、きみ、今から僕が言うものをすぐに持ってきて」
それから智行はすばやく治療を始めた。
冷水を張った桶で紅月の手をよく洗った後、看護師が持ってきた薬を塗っていく。
その間にも、手の甲の痛みやかゆみは強まっていくばかりだった。
苦痛をできるだけ顔に出さないよう、紅月は必死に耐える。
平気なふりをして、大したことではないように振る舞って。
けれど、そばから聞こえてきたのは、震えて滲んだ声だった。
「……ごめんなさい」
隣を見れば、梔子は今にも倒れそうなほど顔を真っ青にして、ぽろぽろと涙を零している。
「ごめんなさい、紅月さん。私の……私のせいで……」
「――……」
まただ、と思った。
まただ。
また、声が出ない。
(……嫌だ)
このままでは嫌だと、心の底からそう思った。
この先ずっと、自分は何もかもを拒み、他人の世話を受けながら、寝たきりのままで過ごすのか。
毎日、そばにいてくれた彼女に、お礼の一つも伝えられないまま――
「――……っ、泣、かな……い、で」
はくはくと、こわばった口を必死に動かす。
それはしわがれて乾ききった、聞くに堪えない声だった。
それでも、言葉は梔子に伝わったらしい。
彼女は濡れた目を大きく見開き、紅月の言葉に耳を傾けてくれていた。
「だ、い……丈夫、だか、ら」
治療が終わったのは、それからまもなくのことだった。
智行は傷口にガーゼをあてて包帯を巻くと、ふうと一息ついて言った。
「これでよし。今日はかなり痛がゆいだろうが、少しずつ腫れも引いていくし、痛みも収まってくるはずだ。……娘を助けてくれて、ありがとう、紅月くん」
「…………」
智行は紅月に向き直ると、深く頭を下げてきた。
どんな反応をしたらいいかわからず、紅月はただ戸惑うばかりだ。
けれどそれもつかの間、顔を上げた智行はにやりと嫌な笑みを浮かべていた。
「しかし、紅月くん……。そうして動けたのだから、これからはきちんと朝起きて、ご飯を食べてくれるということだね? そうだ、体力が戻ってきたら、歩行訓練にもしっかり励んでもらわないと」
上機嫌にそう言って、智行は弾む足取りで病室を出ていった。
後には、紅月と梔子の二人だけが残される。
「あ、あの……。立てますか? その……あの、よかったら、私に掴まってください」
梔子はそう言って、紅月に手を差し伸べてくる。
少しの間、紅月は迷った。
足に力を入れてみる。
けれどどんなに力を込めてみても足は言うことを聞かず、自力で立つことができない。
申し訳なく思いながらも、紅月は梔子の手を借りるほかなかった。
梔子の肩を借り、近くに置いてあった台に寄りかかりながらどうにか立ち上がる。
梔子は懸命に紅月を支え、寝台の端に座らせてくれた。
「あ……りが、とう」
さっきよりは喉に力を入れなくても、話せるようになったかもしれない。
梔子は驚いたように紅月を見つめていたけれど、やがてふわりと相好を崩した。
それはまるで、花が咲きほころぶような微笑みだった。
……その夜。
紅月はなかなか眠ることができなかった。
真夜中の病棟は、ひどく静かだ。
眠れずにいると、どうしても考えてしまうのはこれまでのこと。
そして。
(私は……これから、どうすればいい?)
兄が死んだ。
憎くてならなかった両親も、天罰でも下ったかのように病にかかって死んだようだ。
紅月はあっという間に、天涯孤独の身になった。
これまで絵を描き続けてきたのは、兄を救うためだ。
だからもう、兄がいなくなった今、何のために絵を描けばいいのかも、何を目的に生きればいいのかもわからない。
心はどこまでも空っぽで、次第に考えるのすら億劫になる。
雲の立ち込める夜だった。
ぼんやりと眺めた窓の外は、星の光一つさえなく、ただ暗闇だけが凝っていた。




