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一.口無しと梔子 ―7


「…………」


長い、長い、沈黙が横たわる。


令嬢としての教育など受けてこなかったものだから、言葉遣いや礼儀作法がこれで合っているのか自信はなかった。


だが間違ったことはしていないはずだ。

紅月の今後を思えば、これが最善のことなのだから。

そう、思っていたのに。


「……頭を、上げてくれないか」


やがて静寂を打ち破って響いたのは、固く、重々しい紅月の声だった。

指示に従って、くちなしはこわごわと畳から顔を離す。

けれど、その先に見た彼の表情に、


(え――)


つかの間、息をするのすら忘れてしまった。


「紅月さま……?」


たまらず、その名を呼ぶ。

まるで睨むようにくちなしを見つめ、唇を引き結んで――紅月はひどく傷ついた顔をしていた。


紅月は何も言わなかった。

ただ、何か――怒りか、悲しみか。

溢れそうになる激情を押し殺し、必死に堪えているかのような表情を一瞬見せた後。

彼は黙したまま立ち上がり、くちなしに背を向けた。


ぱたん、と。

襖の閉まる乾いた音が、むなしく部屋に響き渡る。


呆然としたまま、くちなしは動けなかった。


しばらくの間、ただただ、閉じられた襖を放心して見つめ続け……

ふいに膝の上でかすかな音がして、くちなしは視線を落とした。


(あ……)


ぱた、ぱた、と(したた)りながら、雫は着物の布地に次々と染みを作っていく。

震える指先で触れれば、頬はいつのまにか濡れていた。


目頭が火のついたように熱くなるのを自覚してしまえば、くちなしはもう、堪えることができなかった。


「あ、あ……あぁっ……!」


声を上げて泣き崩れる。

紅月に嫌な思いをさせた。

くちなしが、紅月を傷つけた。

……私はいったい、何をやっているのだろう、と思った。

拭っても拭っても、涙は止まらない。


(結局いつも、私は……)


くちなしはいつも、他人を不快にさせることしかできない。

こんな自分に優しくしてくれた人のことさえも……


――くちなし、と。

思い出されるのは、どうしてか、紅月の声ばかりだった。


両親を喪ってから、初めてくちなしに手を差し伸べ、微笑みかけてくれた人。

そうしてやっと、くちなしは気づく。

気づいて、愕然とする。


(まさか、私は、期待していたの……?)


彼になら、くちなしの存在を受け入れてもらえると。認めてもらえると。


だというのなら、こんなにも愚かで滑稽なことは他にないではないか。

だってそんな泡沫(うたかた)の夢のような話など、どこにもあるはずがないのだ。

それは今日の昼間だけでも、この上もないほどに思い知らされたばかりだというのに。


(馬鹿だわ。本当に、私は……)


顔を両手で覆いながら、うずくまる。

声が聞こえたのは、それからほとんど時間が経たない頃のことだった。


「くちなし」


はじめは、幻聴かと思った。


けれどこちらに近づいてくる足音がして、おそるおそる顔を上げれば、確かに紅月はそこにいて、くちなしははっと息を呑む。


目尻にたまっていた雫がほろりと頬を伝ったのに気づき、慌てて顔を背けた。


泣いていたことに気づかれていなければいい。

そう願いながら、くちなしは再び平伏した。


「……っ、申し訳、ありません。今すぐに、ここを出て行く支度をいたしますから――」


あれほど紅月の気分を害したのだ。

彼が戻ってきたのは、くちなしを八條家に送り返すためだと思った。


しかし彼は間髪入れず、強く厳しい声音で答える。


「その先を聞く気はないよ。私は婚約破棄など認めた覚えはないからね」

「え……?」

「顔を上げて。それから、これを着ること。もう夜も遅いが、貴女に見せたいものがある。道中で身体を冷やしてはいけないからね」


ふわりと、肩の上に温かなものが着せかけられる。

それは手触りのよい、上質な(つむぎ)で仕立てられた長羽織だった。

着ると袖がかなり余り、丈も足元につきそうなほどの長さがある。

紅月が自分の衣を貸してくれたのだということが窺えた。


わけもわからず、くちなしは目を瞬かせる。


「あの……」

「ついてきてくれるかな」


紅月はそれ以上は何も言わずに、襖の方へと足を向けた。

行き先は告げられていないが、彼についていくほかない。


狼狽(うろた)えながらも、くちなしは急いで立ち上がり、その後を追った。



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