九.追想 ~喪失と出会い~ ―5
転院先は、葉室医院という名の、帝都の外にある病院だった。
病院が移ったところで、何も変わらない。
紅月はずっと、寝台に横たわったまま、外界の一切を拒むだけ。
けれど前の病院と違ったのは、紅月のことを、医者がただ放っておいてはくれなかったことだった。
「紅月くん。僕はきみに、元気になってここを出ていってもらいたいと思っている」
「…………」
「きみがとても大変な目に遭ってきたことは、聞いているよ。つらかっただろう。今は、気の済むまでゆっくり休んでいるといい。だが、きみには未来があるんだ。少しずつでいい。これからのことを、考えてみてほしいんだ」
未来?
この医者は、何をふざけたことを言っているのだろう。
そう思った。
……何も知らないくせに、知ったようなことを言う。
だから、葉室智行という名のその医者に対して、紅月が抱いたのは嫌悪感だけだった。
……放っておいてくれればいいのに。
けれど智行は、それからも紅月に声をかけてくるのをやめなかった。
智行はとにかく明るく、陽気な人だった。
そして何より、呆れるくらいにしつこかった。
『おはよう、紅月くん! 今日はものすごくいい天気だ! こんな日にただ寝ているだけだなんて、もったいなさすぎるだろう?』
『見てくれ! 退院した患者さんから、こんなにたくさん夏野菜をもらってね。どれも採れたて新鮮野菜だぞ。いつまでも意地を張り続けてるどこかの誰かさんにも、分けてあげようと思っていたのになあ。僕はとっても優しいからね!』
智行は診察のたび、そうして一人で騒いでいた。
けれど紅月からの無視が何度も続くと、さすがの彼も堪えたらしい。
「はあ……」
ある日、智行は深いため息をつきながら、ぐったりと肩を落としていた。
どうやらずいぶん疲労がたまっているらしい。
勝手に騒ぎ、勝手に疲弊している。
馬鹿だとしか思えない。
「紅月くん。僕はもう疲れたよ……」
そんなふうに愚痴を零し始めた智行に、自業自得じゃないかと内心で思った――
それは、そんな時のことだった。
「父さま」
扉が開く音がして、聞き慣れない声がした。
少女の声だ。
部屋で休む紅月を慮ってか、それとも性格によるものなのか。
それは、とても控えめで小さな声だった。
部屋に入ってきたらしいその少女に、智行が泣きつく声が聞こえた。
「梔子〜……」
「と、父さま。どうしたの、父さま」
「紅月くんが僕を毎日無視していじめるんだ……」
何がいじめる、だ。
頼んでもいないのに、毎日勝手に話しかけてきているのは智行の方じゃないか。
いらっとして、つい、視線を智行の方へ向けてしまう。
……向けてから、心底後悔した。
「……え。嘘」
ぽかんとした顔の智行と、まっすぐに目が合ってしまったからだ。
「紅月くんが……紅月くんが、やっとこっちを見てくれた……」
感極まったように呟く智行。
その隣に立っていた少女の姿に、紅月は思いがけず目を奪われてしまっていた。
(あの髪は……)
その少女は、今まで見てきたどんな人々とも、違っていた。
まるで月明かりのように淡く、降り積もったばかりの雪のような――
まばゆいばかりの銀色の髪をしていたのだから。
少女の名は、梔子というらしかった。
梔子。
しっとりと甘い香りをさせながら、初夏に咲く花の名前。
おそらくは名付けの時に、少女の髪の色から梔子の白い花を連想したのだろう。
そして彼女は智行のことを、父さまと呼んでいた。
「この子は梔子。ちょっと前に十歳になったばかりだ。きみより六つ年下ということになるのかな。学校の帰りにここに来て、僕の手伝いをしてくれる。僕の自慢の娘だよ」
そう言って、智行は梔子を紹介してきた。
梔子はどうやら緊張しているようだった。
半ば父の後ろに隠れるように立ち、落ち着かなげに瞬きを繰り返している。
やはり、もともと内気で控えめな性格なのか。
けれどやがて、梔子は意を決したように顔を上げ、智行の後ろから一歩前に歩み出て言った。
「あの……はじめまして。葉室梔子、です。紅月さんのことは、ち、父から聞いています。よ、よろしくお願いしまっ――、痛っ」
勢いづくあまり、梔子は舌を噛んでしまったらしい。
肩を揺らして笑う智行に、梔子は顔を真っ赤にして、涙目で父親を睨みつけている。
それが紅月にとって、梔子との――いずれ最愛の人となる娘との、忘れることのできない初対面だった。




