九.追想 ~喪失と出会い~ ―4
夕弦の葬儀は、ひっそりと行われた。
弦月と依鈴は、しぶしぶ葬儀を出してやったという顔で、悲しみを見せることなど一度もなかった。
忌引きが明け、画塾に戻らなければならない日が近づいていた。
けれどもう、何もかもがどうでもよかった。
だって、何もかも、終わってしまったのだから。
……全部。
全部。
紅月のしてきたことは、その全部が、無駄だった。
「……はは」
兄の死から、紅月は一度も泣けなかった。
心が凍りつき、砕けて、ついには壊れてしまったのだと自分でもわかった。
涙も悲しみも溢れてこない。
代わりに出たのは、狂った笑い声なのだから。
「はは、ははは……。はははははっ……!」
ひとしきり笑い終えると、紅月の意思ははっきりと固まっていた。
このまま紅月が生きていても、両親を……否、夕弦を殺したあの非道な鬼達を、いたずらに喜ばせるだけだ。
ならば、紅月が成すべきことは――
「やめなさい、紅月! そこからすぐに戻ってきて!」
「紅月、やめろ! 何を血迷ったことを――」
篁家の屋敷は、二階建てだ。
二階程度では、死にきれないかもしれない。
だからどうにか屋根まで登った。
確実に死ぬ必要があったからだ。
階下で両親や使用人達が騒いでいる。
「……兄上」
もう、紅月は決めていた。
――これは、復讐だ。
紅月の死をもって、夕弦を殺した報いを鬼達に受けさせるのだ。
「……この世は、何と残酷なものなのでしょうね。私はもう、疲れてしまいました」
よく晴れた日だった。
頭上を仰げば、雲一つなく、青空がどこまでも広がっている。
「兄上。……私も、今、そちらに行きます」
階下から、ひときわ高い悲鳴が上がった。
耳元で、風がうなる音がする。
そして、すべてが暗転した。
*
「…………」
風に揺れる彼岸花を眺めながら語った紅月に、梔子はどんな言葉もかけられなかった。
それほどまでに、紅月が抱えていた過去は凄惨なものだったからだ。
「死にきれなかったと知ったのは、その後、病院で目が覚めた時だ。全身、包帯だらけでね。身体がばらばらにされたように痛かった。あれからそろそろ十年が経つが、あの時の痛みは未だに忘れられないな」
そう言って、紅月は苦笑を浮かべる。
「両親も、あの後すぐに死んだんだ」
「え……?」
紅月の言葉に、梔子は耳を疑う。
「私が入院している間に、流行病にかかってあっけなく。まあ……因果応報というわけだ。復讐など、はなから目論む必要はなかった。神さまとやらが、直々に天誅を下してくれたのだからね」
そう言って、紅月は笑う。
聞いているだけでも胸が痛くなるような過去を、彼は淡々と、まるで他人の身に起きた出来事のように語ってみせるのだ。
「それで、その後のことだが――」
「紅月さま。もう、大丈夫です。それ以上は、もう……」
思わず梔子は紅月の声を遮っていた。
だって、見ていられない。
何でもないことのように、平気なふりをしながら語る彼の顔は、はっきりとわかるほどに青ざめている。
「ごめんなさい、紅月さま。過去のことを教えてほしいだなどと、私は……」
「……貴女に過去のことを話そうと決めたのは、私だ。貴女だから、話したいと……聞いてほしいと思ったんだ。だから謝るのは、私の方だよ。すまなかった、梔子。貴女の優しさに甘えて、聞き苦しいばかりの暗い話をしてしまった」
言葉が出なかった。
自分がつらい時まで、紅月は自分のことより梔子を気遣ってばかりいる。
梔子は必死に首を横に振った。
気づけばそっと、紅月の手を握っていた。
そんなことをしても、彼の悲しみが癒えるわけもないのに。
冷え切っていた紅月の手は一瞬びくりと震えたが、まもなく梔子の手を優しく握り返してくれた。
「……貴女は、本当に変わらないな」
「え……?」
「言っただろう、梔子。かつて私を闇の底から救い上げてくれたのは、貴女なのだと。その頃から……貴女のそういうところは、何一つ変わっていない」
そう言って、紅月が語り始めたのは、彼の目から見た幼い頃の梔子の話だった。
*
病院で目を覚ました紅月を待っていたのは、ひたすら苦痛に苛まれる日々だった。
一日中ずっと全身が痛んで、寝たきりの状態が続いていた。
わずかに痛みが引いてつかの間の眠りに落ちても、薬の効果が弱まればまた激痛に襲われて目を覚ます。その繰り返し。
やっと痛みが弱まってきたのは、何日苦しんだ後のことだっただろう。
一時は生死の境をさまよった紅月がここまで回復したのは、奇跡だということ。
両足の骨が砕けており、もとのように歩けるようになるまでは、半年以上の時間がかかるだろうということ。
そんな内容を医者が話していたが、紅月にはもはやどうでもいいことだった。
……死にきれなかった。
それが、その時の紅月にとっての、すべてだった。
やがて足以外の怪我がほとんど癒えても、紅月は起き上がることができなかった。
どういうわけかはわからない。
ただ、身体は鉛のように重く、指先一つ動かすことすら億劫だった。
食事をとることもできなかったから、点滴だけでかろうじて生き延びる日々が続いた。
食べず、動かず、何も話さない紅月に、病院側が苦慮していることはぼんやりとした意識の中でも伝わってきた。
そしてある日、転院、という言葉を耳にした。
――転院。
ここでは手に負えないとでも判断されたのか。
どうやら紅月は、別の病院に移されることが決まったらしい。
……どうでもいい。
相変わらず心は死んだままなのか、何の感情も湧かなかった。
ただ一つ、願うのは。
……誰でもいい。
誰でも、いいから。
「……死なせてくれ」
かすれ、消え入りそうな紅月の声を聞きとどめた人は、誰もいなかった。




