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九.追想 ~喪失と出会い~ ―3


――僕は忌み子だ。

紅月は何より、自分を一番に憎んでいた。


だって、自分さえいなければ、兄はこれほどまでに苦しまずにすんだ。


見目よく、学業にも優れ、何より父をも凌駕(りょうが)するほどの画才に恵まれ。

あらゆる人々が紅月を神童と褒めそやし、羨ましがった。


……けれどそれが、大切な兄をただ苦しめるだけだというのなら。


「……僕は、何も……要らない」


才能など、呪いだ。

誰かを傷つけることしかできないのなら、そんな才に何の価値があるというのだろう。


「絵なんか、描かなければよかった……。僕など、この世に生まれなければよかったのに!」

「紅月!」


ぱんっ、と乾いた音が響き渡る。

打たれた頬を押さえながら呆然として見上げると、夕弦は苦しげに顔を歪めていた。


「兄、上」


夕弦は紅月を思い切り抱きしめてきた。

視界が暗くなる寸前、兄の目にも涙が光って見えたのは、果たして紅月の見間違いだったのか。


「……紅月。自分が生まれなければよかったなどと、そんなことは二度と言うな」

「でも、僕は」

「紅月。お前の絵は、人を喜ばせることのできる絵だ」

「…………」

「だからお前は、何があっても描き続けろ。せっかく生まれ持った才を、そんなふうにないがしろにしてはいけない。いいな、紅月」

「……っ」


もう、我慢することはできなかった。


兄の腕の中で、紅月は声を上げて泣きじゃくった。

兄はもう泣くなとは言わず、ただ、紅月が落ち着くまで背をさすっていてくれた。


……ひとしきり泣くと、紅月の胸には、今までとは違う確かな決意が芽生えていた。


「兄上。……僕は、画家になります。一日も早く、父上を超える画家になり、この家の当主になります」

「紅月……」

「いつまでも父上と母上の好きにはさせません。僕が当主になって、兄上の境遇を変えてみせます。兄上を、この家から、自由に……」


そうして、迷いは消え去り、心は決まった。

一日も早く画家となって、兄を助けるために。




それからというもの、紅月の絵の上達はますます早くなっていった。


小学校が終われば、父や、父が教師として招いた画家から日が暮れるまで絵を習う日々が続く。


日々、植物が水を吸い上げて生長するように、紅月は新たな技術を身につけていった。


夕弦は時々、皆が寝静まった後、紅月のところへ絵を見に来てくれた。


屋敷にもうけられた紅月のためのアトリエには、さまざまな画具や資料が揃えられ、作業に集中するための環境がととのえられていた。


「すごいな。お前はまだ十三だというのに、こんな大作まで描けるようになったのか。これは……俺の知る絵とは、少し雰囲気が違うな。異国の舞装束か? まるで、ここに描かれている女が、暗闇にぼうっと浮き上がるような……」

縹渺(ひょうびょう)体という画法です。外つ国が由来の技法で、こんなふうに、線を使わず色だけで光や輪郭を表すんです。昔は嫌われていた描き方ですが、近頃になってやっと認められてきていて……」


夕弦はいつも、紅月の話によく耳を傾けてくれていた。

兄と絵について語り合うささやかな時間が、紅月は好きだった。


けれど。

もうじきに、紅月がこの屋敷を出立しなければいけない日が近づいてきていた。


「紅月。……まもなくだな」

「……はい」


紅月はあと数日で、高等小学校の卒業の日を迎える。


卒業後は画塾に入り、下宿しながら学ぶことが決まっていた。


これから数年、紅月は屋敷を離れ、さらなる修業に打ち込むことになる。


「頑張れよ、紅月。お前が画家として大成するのを、心待ちにしている」

「……! はい、兄上!」


夕弦はそう言って、紅月を送り出してくれた。


……この頃の紅月は、まだ無邪気に信じていた。

志高く学び、画家となって。

遠くないうちに、兄を篁家の呪縛から解き放つことができる、と。


――けれどそれは、甘い夢だった。

叶うはずのない、泡沫の夢。


そんな明るい未来など、容易く、粉々に砕け散ってしまうことを、知らずに。




それから、二年後。


「……どういうことですか。父上、母上」


雪混じりの風が吹く、凍てついた冬の日。


数か月ぶりに篁家の屋敷に帰省した紅月は、震える声で尋ねていた。


――夕弦の姿が、見えない。


ひどく、胸騒ぎがした。


果たして、夕弦の部屋を訪れた紅月が目にしたのは、病に伏して苦悶する兄の姿だったのだから。


部屋には暖を取る器具などなく、凍えるように寒い。

この寒さの中、夕弦は粗末な布団に横たわり、激しく咳き込んでいた。


あまりの怒りに、我を忘れそうだった。


それなのに、紅月を追いかけてやってきた両親が、何を口にしたか。


「紅月。どうせただの風邪だ、放っておけばいい。そいつはまったくの木偶(でく)の坊だが、身体だけは頑丈だからな。まったく、耳障りな咳をしおって、騒がしくてかなわんわ」

「そうよ。紅月、あなたまで病にかかったら大変だわ。早くこちらにいらっしゃい」

「――……ふざけるな!」


気づけば、紅月は両親に罵声を浴びせていた。


まさか紅月がここまで激怒するとは思ってもみなかったのだろう。

怯んで口をつぐんだ両親を尻目に、紅月は夕弦を背負って屋敷を飛び出していた。


兄の身体は燃えるように熱く、まるで死人を背負っているようにぐったりと重い。


(なぜ、こんなに兄上が苦しんでいるのに、放っておけなどと言えるんだ。あの人達には、人の心がないのか……?)


使用人に命じて車を出させ、向かうのは病院だった。


「……ぐ……っ、げほっ、がはっ」

「兄上! 大丈夫ですか、兄上! すぐに病院へ向かいますから……!」


夕弦の唇は青く、顔はもはや死人のように蒼白だった。

咳とともに吐き出される痰は、赤みがかった異様な色をしている。


……どう見ても、ただの風邪なんかじゃない。


胸騒ぎは、ますますひどくなるばかりだった。


(嫌だ……嫌だ、兄上。兄上……!)


駆け込んだ病院で、夕弦はすぐに治療を受けることになった。


雪は日暮れになっても、しんしんと降り続けていた。


……もっと。

もっと早く、屋敷に帰っていれば。


冷えて薄暗い廊下で待ちながら、紅月は何度も、何度も自分を責めた。


やがて。

紅月のもとを訪れた医者が告げたのは、


「――残念ですが」


目の前が、真っ暗になった。




何もかもが凍てついたあの夜を、紅月は一生忘れることはない。


病院に連れて行ったその日のうちに、夕弦の容態は急速に悪化していった。

一度も言葉を交わすことができないまま、兄の呼吸は細くなり、身体は少しずつ冷たくなっていった。


目の前の現実が信じられず、呆然とする紅月の前で、兄は死んだ。


音のない、静かな、静かな夜だった。



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