九.追想 ~喪失と出会い~ ―2
「――兄上」
その日の夜遅く。
幼い紅月は、ひそかに兄の部屋を訪れていた。
兄の部屋は、とても粗末だった。
日当たりが悪い北側の部屋で、家具は古く、寝具も衣服も繕いだらけのものばかりだ。
だからいつも、兄の部屋に来るたびに、紅月は胸を痛めずにはいられなかった。
兄の顔を見るなり堰を切ったように泣き崩れた紅月に、夕弦は厳しい顔をした。
けれど泣きじゃくる弟に寄り添って背をさする手は、胸が苦しくなるほどに優しく、温かい。
夕弦は、いつもそうだった。
自分がどれほど苦しくても、弟である紅月のことばかり心配し、気遣っている。
そんな、悲しいほどに優しく、温かい人だった。
「紅月……。泣くな、紅月。お前は将来、この家を背負って立つんだ。それなのに、このくらいのことで泣いてどうする」
「無理です……兄上。だって、僕のせいで、兄上が……!」
夕弦の顔には、打たれた痕が痛々しく残っていた。
激怒した父が、夕弦に手を上げたのだ。
その場面を、紅月は偶然目にしてしまった。
「お前のせいなんかじゃない。紅月」
「いいえ、僕のせいです! 父上は、言っていたではありませんか。僕が反抗したのは、兄上が僕によからぬことを吹き込んだからだって……!」
年々、夕弦に対する両親の仕打ちは、ひどくなるばかりだった。
やむなく家族で外に出かけなければならない時、両親はあからさまに夕弦をのけ者にし、紅月の隣を歩くことを許さなかった。
屋敷の中では、夕弦を家族の一員とみなさず、使用人と同じように下働きをさせた。
『うちには紅月がいれば充分ですからね。他に子どもは要りません。……夕弦? あら、そんな名前の子、この家にいたかしら?』
『夕弦。お前、その汚い格好で紅月に近づくなと何度も言っているだろう。なんとか言ったらどうなんだ。え? 無能のお前が、まだあの子の兄を気取るつもりか! ふざけるな! お前は私の息子ではない!』
両親が兄に向ける暴言に、紅月もまた苦しんでいた。
(……なぜなんだ。なぜ、父上と母上は、兄上にあんなにも冷酷な言葉をかけることができるんだ。兄上はよその子なんかじゃない……まぎれもなく、あなた達の血を分けた子どもだろう!)
そうしてついに耐えきれなくなった紅月は、両親を非難し、抗議することにしたのだ。
けれど、紅月の前ではしおらしく謝り、そこまでお前が言うならと、夕弦への接し方を改めると言った両親が、その後にいったい何をしたか――
「兄上。傷によく効く軟膏を持ってきたのです。お願いです。僕に傷を見せてください」
「紅月……」
「お願いします、兄上」
必死に頼み込む紅月に、しばらくして夕弦はようやく折れてくれた。
夕弦の怪我は顔ばかりではなかった。
腕や足に巻いた端切れを取り去ってもらうと、その下から無数の生傷が現れる。
紅月はその傷の一つ一つに、丁寧に軟膏を塗っていった。
「……薬が沁みませんか、兄上。痛むのであれば、言ってください」
「いや、平気だよ。悪いな、紅月。……なんだ、またお前は泣いているのか?」
軟膏を塗りながら、また涙が出てくるのを抑えられなかった。
――僕のせいだ。
自分を責めずにはいられなかった。
紅月に非難された両親は、陰で夕弦に手を上げた。
紅月が両親に楯突いたせいで、余計に夕弦はひどい仕打ちを受けることになってしまったのだから。
「……申し訳ありません。申し訳ありません、兄上……!」
「紅月。いいんだ。こんな傷、大したことはない。だからもう、泣き止んでくれ」
はらはらと涙を零す紅月を、兄は頭を撫で、肩を抱いて慰めてくれた。
「……紅月。お前は、優しいな」
「え……?」
「俺のことなど無視してしまえば、すぐに楽になれるんだ。なのにお前は、それをしない」
「それは……僕に、父上や母上と同じになれと、そう言っているのですか? 父上や母上と同じように、兄上を虐げ、見下せと……」
「そうだ。それしか、お前が苦しまずにすむ方法はない」
「嫌です! 僕にはそんなむごいことなどできません! そのようなことは、冗談でも口にしないでください!」
苦しくて、悔しくて仕方がなかった。
何を言っても、両親は変わらない。
どれだけ才能があったとしても、紅月は年端もいかない子どもにすぎず、状況を変えるにはあまりに無力だった。
……ならば、と紅月の頭に、ある一つの考えがよぎる。
一度考えついてしまえば、兄を救うには、方法はそれしかないとさえ思えた。
蒼白な顔で、紅月はその考えを口にする。
「僕が……絵なんか、描かなければ……。この腕を折って、使い物にならなくしてしまえば……」
「何を言っている。それは絶対にだめだ、紅月。ふざけたことを考えるのはやめろ」
「……っ、僕はふざけてなどいません! そうしなければ、兄上はこれからもずっと、傷つき苦しめられるばかりではありませんか……!」




