九.追想 ~喪失と出会い~ ―1
紅月の両親。
篁弦月。その妻、依鈴。
彼らがいつも優しかったことを、紅月はよく覚えている。
まだ幼く、何も知らなかった紅月は、彼らによく懐いていた。
「父上、母上、見てください! この絵は僕が書いたのです」
胸を高鳴らせ、自分が描いた絵を見せに行くと、彼らはいつもとても喜んで、紅月を褒め称えてくれた。
「まあ、紅月! これは庭に咲いた菖蒲の花を描いたのね。なんて綺麗なんでしょう。あなた、見て。この子ったら、この頃ますます絵が上手になって……」
「さすがは私の息子だ。まだこんなに幼いのにこれほどの絵を描き上げるとは……。お前がいれば、この家の未来は安泰だな」
両親に褒められるのが嬉しかった。
彼らに喜んでもらうために、もっともっと絵を描こうと、無邪気にそう意気込んでいた。
けれどやがて、知ることになる。
「夕弦、なんだその絵は。お前は紅月より何年多く生きていると思っている」
「なんて醜い絵なのかしら。これでは、三歳児の絵の方がよほどましな出来ではないの」
紅月には甘い両親は、兄の前では別人のように冷淡だった。
「申し訳ありません……父上、母上。俺も紅月を見習って、もっと精進いたしますから」
「ふん。お前がどれほど努力しようが無駄なことだ。この私の血を引いているというのに、構図といい筆遣いといい、お前には才能の欠片もない」
紅月が才能を伸ばせば伸ばすほど、家の中で、兄は居場所を失いつつあったことに。
*
「夕弦さま……」
紅月が初めて口にした、彼の兄の名。
思わず梔子が呟くと、紅月は頷き、言葉を続ける。
「私より五つ年上でね。当時の使用人によれば、はじめは兄上も、父上はともかく、母上には可愛がられていたそうだ。……私が、生まれてくるまでは」
*
紅月の父、篁弦月もまた、世間に名の知られた画家だった。
美しいもの、珍しいものに目がなかった弦月は、妻となる女を選ぶ時にも、何より容貌を重視した。
弦月の妻となった依鈴は、もとは花街で名を馳せた芸妓だ。
依鈴は、匂い立つようなあでやかな美しさの持ち主だった。
その美貌の虜になった弦月は、大枚をはたいて依鈴を身請けし、己の妻として迎えたのだ。
しかし彼らの間に生まれた子――夕弦は、画の才もなく、特別見目がよいともいえない、ごく普通の子どもだった。
自分の子ならば、才能があって当然だ。
そんな身勝手な考えの持ち主だった弦月は、ことあるごとに依鈴を責めた。
夕弦が生まれた後の夫婦仲は、ひどく冷え切っていたという。
「私の子だというのなら、あんな見るに堪えない絵を描くわけがないだろう。お前、まさかよそに男がいるのではあるまいな」
「まあ、密通を疑うというんですの? でしたら好きなだけお疑いになられませ。ただ、これだけは言っておきますけれどね、夕弦の顔の造りは、どう見たってあなたにそっくりじゃありませんの」
ささいなことから、二人の間には言い争いが絶えなかった。
両親の喧嘩の種がいつも自分であることに、幼い夕弦はどれほど心を痛めたことだろう。
けれど、それから数年後。
夫婦の間に生まれた紅月が成長すると、状況は一気に様変わりする。
父を超える画の才。
母に瓜二つのつややかな美貌。
不出来だった夕弦と違い、紅月はあまりに天賦の才に恵まれた子どもだったからだ。




