一.口無しと梔子 ―6
青々と香り立つ宵闇から、夏の虫の音と蛙の鳴く声が聞こえてくる。
紅月の屋敷に着いた、その夜。
くちなしは何をするでもなく、外の風景を虚ろに眺めていた。
築地塀の上に煌々と輝く月が、夜の庭先をほの白く照らし出している。
篁家の屋敷内に与えられたくちなしの部屋は、どう考えても分不相応すぎるものだった。
藺草の香り漂う青畳の部屋は広々として、障子戸を開けば、その先に設けられた縁側は、季節の花の咲く和風の庭に面している。
家具もまた、上質なものばかりだった。
黒漆の平卓。蒔絵や七色にきらめく螺鈿の施された飾り棚。
こんな丁重な扱いをされる価値が、くちなしにはあるはずもないというのに。
こうしていると、何度となく思い出すのは、今日の昼間、くちなしが屋敷に到着してまもなく起こった出来事のことだった。
くちなしを目にするなり、気味の悪い虫でも見かけたかのように顔を歪めた、あの青年――静貴の姿。
静貴が去った後、紅月はくちなしに向き直り、苦しそうに言った。
まるで彼の方こそ、静貴の言葉にひどく傷ついたかのように。
『静貴があのような振る舞いをしてすまなかった。貴女にとても嫌な思いをさせただろう。……彼は私の古い友人でね。私が無名だった頃から、幾度となく援助をしてくれていたんだよ。決して悪い奴ではないんだが、時々、手厳しい物言いをすることがあってね』
――目障り。化け物。
静貴と彼の使用人から浴びせられた言葉が、耳の奥に何度もよみがえる。
(どこに行ったって、誰の前だって、同じなのよ。私は醜い化け物。……それを、忘れてはいけない)
今日だけ華やかな着物を着せられ、申し訳程度に化粧をしたところで、くちなしの奇怪な容貌をごまかせるはずがなかったのだ。
きっと静貴の目には、山姥が晴れ着をまとっているようにしか見えなかったことだろう。
それはどれほど滑稽で、おぞましい姿だったことか。
……やはり、私はここにいるべきではない、と。
そう思った。
くちなしが妻になれば、紅月の名声に大きな傷がつくことは避けられない。
静貴の反応がそれをはっきりと証明している。
紅月は画家だ。
芸術を生業にする者にとって、他人からの評価がどれほど大切なものかは、くちなしにだって理解できる。
この結婚が少しも紅月の益にならないのは、誰の目にも明らかなことだ。
これ以上、彼に迷惑をかけないためにも。
明日の朝を迎えたら、くちなしがすべきことは決まっていた。
痛みを堪えるように胸元に手を当て、目を伏せる。
(紅月さまに……婚約を破棄していただくよう、申し出なければ。あの方のためには、それが一番いいこと。私は……ここにいてはいけない存在だから)
けれど。
朝を待たずに、その機会はまもなく訪れた。
「くちなし。入ってもいいかな」
呼びかけの後に、襖が開かれた。
はっとして背後を振り返れば、部屋に入ってきたのは紅月だった。
紅月は急いで立ち上がろうとしたくちなしを制して歩いてきた。
くちなしの隣に座って、彼は話し始める。
「昼間は、静貴が礼を欠いた振る舞いをしてしまってすまなかったね。今の気分はどうかな。あれから少しは安らいでくれているといいのだが」
紅月の眼差しは柔らかく、憂いを帯びていた。
その眼差しを見れば、彼が言葉の上だけではなく、心からくちなしを案じてくれていることがわかる。
だからこそ、戸惑わずにはいられない。
(……この方の考えていらっしゃることが、私には少しもわからない)
どうして、これまでに会ったことも話したこともなかったばかりか、ただでさえ醜く嫌われるくちなしに対して、こんなにも親切にしてくれるのか。
居たたまれなくなって、くちなしは目を伏せる。
くちなしには、彼に優しい眼差しを向けられる値打ちなどありはしないのに。
……だから、今こそ、彼に告げなければならない。
意を決して、くちなしは口を開いた。
気を抜けばわななきそうになる喉を叱咤し、言葉を紡ぐ。
「静貴さまのことは……、私が、このような姿をしているのがいけなかったのです。ご友人に、ご不快な思いをさせてしまったこと……まことに申し訳ございませんでした」
「くちなし……?」
居住まいを正して正座し、両手のひらをつく。
それから、深々と頭を垂れ、額を畳にこすりつけた。
紅月が狼狽する気配を頭上に感じる。
「初日からあなたさまに不愉快な思いをさせてしまい、大変申し訳ないことをいたしました。これ以上、あなたさまのご負担になることを、私は望みません。ですからどうぞ、この婚約を破棄くださいますよう……ひらにお願い申し上げます」