八.ずっと貴女を愛していた ―4
ぱた、と水滴が落ちて弾ける音が、かすかに耳をかすめていった。
(……どう、して……?)
紅月は、泣いていた。
彼の頬の輪郭をなぞり、透明な雫が静かに滴り落ちていく。
「紅月さま……?」
自身の頬に触れ、濡れた手を見て、ようやく自分が泣いていることに気づいたのか。
彼の美しい面差しには、驚愕の色が広がっていく。
「……すまない。少し、席を外させてくれ」
「あ――」
とっさに呼び止めようとした梔子を置いて、紅月はそのまま診察室を出ていってしまった。
(紅月、さま……)
自分の見たものを、梔子はにわかには信じられずにいた。
なぜ。どうして。
紅月は急に涙を流していたのか――
はっと我に返ったのは、まもなくのことだった。
彼の涙の理由は、わからない。
けれど、今、自分がすべきことは一つしかない。
それだけは、はっきりとわかりきったことだった。
「先生」
「ああ、わかっているよ。行ってあげなさい。診察はもう終わりだ。気のすむまで彼と語り合えばいい」
「……はい。ありがとうございます、先生。失礼します」
急いで診察室を出れば、もう紅月の姿は近くには見当たらなくなっていた。
そのまま進み、突き当たりを曲がると、ようやく廊下の向こうに紅月の後ろ姿を見つけることができた。
……追いかけなければ。
梔子が考えるのは、ただ、それだけだった。
紅月を追ううちに、あたりからは人気が徐々に薄れていく。
それはきっと、今、彼が求めているのが、誰も寄りつかない静かな場所だからだろう。
やがてたどり着いたのは、病院の裏手にある広い庭。
誰の姿も見当たらない一角だった。
どこか近くで、金木犀が時期を迎えたのだろうか。
秋風が吹き、あたりには澄んだ金色の香気が広がっていく。
「……紅月さま」
梔子が言葉を続けようとするよりも早く、紅月は梔子に背を向けたまま答える。
「梔子。お願いだ。今だけは、一人にさせてくれないか。貴女に、これ以上……みっともない姿は見せたくないんだ」
――伝えたい。
心の底から、梔子はそう思った。
(紅月さまは……もう何度だって、私に伝えてくださっていた)
梔子に向ける微笑みで。
惜しみない優しさと、いたわりで。
彼は、ずっと孤独だった梔子に、尽きることのない愛を注いでくれた。
ならば、今度は――梔子の番だ。
「紅月さま。どうか、もう一度……聞いていただけませんか」
すっと息を吸い、梔子はまっすぐに紅月を見つめた。
――もう、勇気は要らなかった。
「紅月さま。私は、あなたが好きです。あなたを、心から愛しています。……だから、どうか」
一歩、紅月の近くへと歩き出した途端、梔子の目の前は真っ暗になった。
金木犀の香りはもう感じない。
もうすっかり慣れ親しんだ、白檀の――彼の香気が、梔子の全身を包んでいた。
震える紅月の背を抱きしめ返しながら、梔子は告げた。
この想いが、どうか、彼に届きますように。
そう、強く、願いながら――
「どうか、私に……もっと、あなたのことを教えてください」
顔を上げれば、目が合った。
梔子はそっと、紅月の頬に手を触れる。
紅月が何度もそうしてくれたように、今度は梔子が、彼の涙を拭いたかった。
「どうして、泣いているのですか? 私は、何か、あなたのお気に障るようなことを言ってしまいましたか?」
「……違うよ。当たり前だろう。梔子……本当はわかっているのに、わざとそんなふうに訊いているね?」
困ったように眉尻を下げて、紅月は泣き笑う。
そうだ。
本当は、わかっていた。
梔子のうぬぼれなんかじゃない。
紅月はきっと、梔子の言葉に、涙を零すほどに喜んでくれていたのだと――
「梔子。急に取り乱したりして、すまなかった。それでも、どうか……聞いてくれるかな」
「はい。紅月さま」
「貴女が好きだ、梔子。もうずっと昔から、貴女だけを愛していた。貴女と離れている間、貴女のことを想わない日は、一日だってなかったよ。それはこれから何があろうとも、未来永劫、変わることなんて決してない。梔子。私は、貴女を――愛している」
口づけが、降る。
何度も、何度も、飽くことなく、二人で唇を重ね続けた。
そのうちに、気づけば梔子の瞳からも、紅月と同じようにとめどなく涙が溢れていた。
今ならば、迷いなく言い切ることができる。
全身を優しい幸福に満たされていきながら、梔子は心の中で呟いた。
(私は……きっと)
きっと、この時のために生まれてきた。
この方と出会い、愛し、愛されるために、梔子はこれまで生きてきたのだ――




