七.旅の始まり ―11
「おいしい、ですね」
「ああ。本当に。まったく、だから貴女が全部食べるようにと言ったのに」
「それでは、だめです。きっと……あなたと同じものを食べているから、とてもおいしいのですから」
明るい月の光が窓辺を柔らかく照らしていた。
穏やかで、満ち足りていて――幸せで。
この時間がずっと続いてほしくて、梔子はなかなかおむすびを食べ終えることができなかった。
それでも、幸せであればあるほど、時は流れるように過ぎ去ってしまう。
「ごちそうさまでした」
紅月よりもかなり遅れて、梔子もおむすびを食べきった。
うっすらと差す月光を頼りに目を凝らせば、壁にかけられていた時計は夜中の二時を示している。
「さて、もう寝るんだ、梔子。もう夜も遅いからね」
「はい。でも、あの……紅月さまは、どこでお休みになるのですか?」
「私かい? ああ、そうだね……今晩はそこにある椅子の上で寝ることにするよ。何かあったら、すぐに呼んで」
紅月が視線で示したのは病室の隅にある長椅子だった。
布張りにはなっていたが見るからに硬そうな布地で、深く座れるほどの奥行きもない。
座面幅も二人腰掛けられるかというほどのもので、ただでさえ長身の紅月が身を横たえることなど、到底できそうにもなかった。
「……ごめんなさい」
また、謝る必要なんかないのにと呆れられるだろう。
それでも、謝罪を口に出さずにはいられなかった。
梔子の体調はもうすっかりよくなっていた。
だから本当は、梔子のいるこの寝台は紅月にこそ使ってほしい。
けれどそんなことを言い出せば、再び押し問答になるだけなのは明らかだ。
「また謝ったね、梔子」
ちゅ、と花びらの触れるようなキスが額の上に落ちてくる。
見上げれば、紅月は慈しむような表情で梔子を見つめていた。
「私のことは心配しないで。前にも言ったと思うが、私はもともと丈夫だし、どこでも寝られる性質だからあの長椅子で充分なんだ。さあ、もうお休み。明日は念のために先生が検査をしてくれると言っていた。問題がなければ、すぐにここを出られるそうだよ」
そう言われて、梔子はふと思い出す。
昼間、梔子を助けてくれたあの医者が言っていた言葉。
――葉室の娘と同じ……。あれから何年が経ったか……もしや、この子は……。
(あのお医者さまは……父さまのことを知っているようだった)
もう遅い時間だ。
尋ねるなら明日にするべきだと迷ったけれど、それでもどうしても気になって、梔子は切り出した。
「紅月さま。一つ……もしご存じでしたら、教えていただきたいことがあるのです」
「ん? 何かな」
「昼間、私を助けてくださったお医者さま……あのお方の名前を知りたくて」
すると、紅月はすぐに答えてくれた。
「ああ、あの先生の名前か。倉岡……ええと、確か、尚史先生と言っていたかな。聞けば、この国でも指折りの名医だそうだよ。もしかして……貴女にとっては、顔見知りの先生だったのかな」




