七.旅の始まり ―10
「ん……ん、ぁ……、は……っ……! も……やめ……紅月さま……っ」
紅月は梔子の言葉など聞こうとしなかった。
手加減など、微塵もする気はないらしい。
ついばむような口づけをしばらく繰り返した後、梔子が唇に淡く塗っていた紅を、紅月は舌先でさらっていく。
そうしてすっかり濡れた梔子の唇を舌で割り開き、彼はその奥深くまで口づけようとしていた。
それは、優しいどころか、荒々しささえ感じるほどの口づけで。
「ん……っ、んん……っん、は、ぁっ……!」
舌に触れ、絡ませて。
互いの唾液を味わうような深い口づけに、梔子の息は瞬く間に乱れていく。
目が眩む。
触れられたところが、発火したように熱くなる。
口づけの合間に零れ出る声は信じられないほどになまめかしくて、恥ずかしさのあまり今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
紅月から告げられずとも、梔子にはわかった。
これは、罰だ。
彼は言葉ではなく、その口づけの深さで、今にも失神させられそうなほどの甘さで、これが梔子への罰なのだと告げているのだ。
「…………はぁっ、は……」
どれほどの時間、何度口づけを繰り返しただろうか。
気づけば西日は弱まり、空にちらほらと星が瞬き始めていた。
はあ、はあ、とあえぐように呼吸を繰り返す梔子の頬を、紅月の指先がなぞっていった。
やがて彼は梔子の目の縁にそっと触れ、そこに唇を寄せながら言ってくる。
「少し、濡れている。さてはまた泣いたんだね。泣くことなんかないのに。貴女は本当に泣き虫だ」
「紅月さま。お願いです、どうかお許しください。でなければ、もう、立てなく――……」
あ、と思った時にはもう遅かった。
膝から力が抜け、がくんとその場に座り込んでしまう。
それきり、どんなに足に力を込めても、もう自力で立つことはかなわなかった。
「梔子。まさか……立てなくなってしまったのかい?」
「…………。紅月さまの」
「え?」
「紅月さまの、せいです……」
蚊の鳴くような声でやっと答えた梔子に、紅月は一瞬虚をつかれたような顔をしていたが、やがて声を立てて笑い出した。
ふわりと身体が浮き上がる。
「こ、紅月さま……っ」
梔子を抱え上げた紅月は、先ほどまでの憂いが嘘のように、晴れやかな笑みを浮かべていた。
「帰ろう、梔子。今日は、貴女が腕によりをかけて自慢の料理を振る舞ってくれるんだろう? とても楽しみだ」
*
(い、今は、無理だわ)
真っ赤になった顔を見られたくなくて、梔子は病室の窓の方へと顔を背ける。
紅月に無断で外出したあの日の夕暮れ。
怒った彼から、容赦なく与えられた罰。
あれは、立てなくなるほどに深く、甘く、刺激の強すぎた口づけだった。
紅月の息遣いや、互いの舌が絡み合っている時の濡れた音。
そして恍惚とするあまりに漏らしてしまったしどけない声が、今もなお、耳の奥にしっかりと焼きついているほどなのだ。
あの時は、まわりに人がいなかったからまだよかった。
けれど今、二人がいるのは壁一つ隔てて他人がいる部屋だ。
自分の声が廊下や隣の部屋にまで聞こえてしまったらと、そう考えただけでも羞恥で布団にもぐり込みたくなってくる。
「ん? 梔子、どうしたのかな。なんだか、さっきよりも顔が赤くなっているような気がするけれど」
「そんなこと、ありません。き、気のせいです」
わかっていらっしゃる……くせに。
あの日の記憶を思い出すよう仕向けてきたのは、他ならぬ紅月だ。
それなのにとぼけたように尋ねてくる彼に、半ば恨めしい気持ちが募っていく。
「……あの」
諦めて、梔子は思いついた考えを話そうと切り出す。
結局、梔子は紅月にはかなわない。
どんなに粘ったところで、彼はおむすびを食べてはくれないだろう。
けれど、やはりここで彼に甘えきってしまってはいけないと、梔子は心の中で自分を叱咤した。
「……全部は、いただけません。ですから、その。は、半分にするというのは、どうでしょうか」
「半分?」
「はい。……だめ、でしょうか」
おむすびはそれなりの大きさがあった。
けれど半分だけでは梔子にとっては事足りても、紅月が空腹をまぎらわすには充分な量とは思えなかった。
それでも、何も食べてくれないよりはましだ。
紅月はしばらくの間、考え込むように黙っていた。
梔子はその間、彼が頷いてくれるのを祈るような思いで待つ。
やがて、紅月は肩をすくめ、苦笑を浮かべて言った。
「……仕方がないな。貴女はそうでもしないと、いつまで経っても食べてくれないつもりなんだね」
「それは、紅月さまだって、同じなのではないですか?」
ふと、視線がまっすぐに重なり合う。
しばらくそうして見つめ合って、やがて病室に響いたのは、重なり合ったひそやかな笑い声だった。
ちょうど半分になるようにおむすびを手で割る。
「いただきます」
ぱく、とおむすびを一口かじる。
味つけはわずかな塩だけで、具は特に何も入っていない。
なのに分け合ったおむすびはあまりにおいしくて、じんわりと身にしみてくるほどだった。




