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七.旅の始まり ―8


          *


あれはまだ、梔子が病み上がりの頃だっただろうか。


梔子を看病する日々が長く続いたせいで、紅月はたまっていた仕事を一気に片付けなくてはならなくなり、早朝から夜遅くまでアトリエで忙しく働いていた。


「梔子。貴女はまだ病み上がりなんだ。無理をしてはいけない」


そう言って、紅月はなかなか梔子に前のように家事をすることを許さなかった。


特に、冷たい水を使い、動きも激しい掃除や洗濯などといった家事は、彼が自分でやると言って、梔子に水を触らせることすらしていなかったほどなのだ。


しかし、そうやって画業にも家事にも身体を酷使し続けて、彼が疲れないはずもなく。


ある日、梔子が昼餉を運びにアトリエに向かうと、画具で散らかった畳の上に、紅月は半ばうつ伏せの状態で倒れていた。


「紅月さま!」


慌てて駆け寄ると規則正しい寝息が聞こえてきて、紅月がただ眠っているだけだということはすぐにわかった。


よく見れば彼は折りたたんだ座布団を枕にしていて、おそらくは仮眠を取るつもりで横になったのだろうとわかる。


けれど、安堵したのもつかの間、梔子は心配でたまらなくなってくる。


紅月の顔は心なしか前よりも痩せ、目の下はうっすらと黒ずんでいるようだった。

彼がひどく疲れ切っていることは、目に見えて明らかだ。

今だって、彼は梔子の声にまったく反応せず、死んだように眠っている。


……このままでは、今度は紅月さまが倒れてしまうわ。


梔子は心を決めた。


紅月が深く眠り込んでいる、今のうちだ。

急いで母屋(おもや)に戻ると、禁止されていた家事を片付け始める。


ひと通り終わると昼下がりになっていたが、再びアトリエに行ってみると紅月はまだ眠っている。


(そういえば、今朝、大きな仕事が終わったばかりだと仰っていた。昨晩は、ほとんどお休みになっていなかったのかもしれない……)


もうじきに夕方になる。

近頃は一気に秋の気配が深まり、朝晩の冷え込みが強くなっていた。


紅月が身体を冷やすようなことがあってはいけない。


梔子は母屋から薄手の掛け布団を持ち出すと、彼の身体の上にそっと被せる。


それでもまだ起きる気配のない様子を見て、梔子は一つ頷いた。


(きっと、まだお目覚めにはならないはず)


梔子には、もう一つだけやりたいことがあった。


紅月の画業を手伝うことはできない。

ならば、せめて。


(紅月さまに、何か滋養のあるものを食べてもらえたら……)


八條家にいた頃から毎日台所に立ち、さまざまな料理を作り慣れていた梔子だ。


八條家の誰かが体調を崩した時、貴重な食材をふんだんに使って薬膳料理を作っていたことを思い出す。


けれど、今、屋敷にある食材だけでは、充分な効果の見込める料理はとても作れそうにはなかった。


……少し出かけて、すぐに戻ってこられれば。


幸い、この屋敷から商店の並ぶ通りまではそう遠くない。

急いで行ってくれば、紅月が目を覚ますまでに戻ってこられるだろう。


彼と暮らすようになってから、梔子が一人で外出するのは初めてのことだ。

むろん、病み上がりという今の状況もある。


……紅月さまは、きっと、私が外出すると言ったら反対するわ。


だから、紅月が目を覚ます前に行って帰ってくる必要があった。


自室に戻り、手早く支度をして屋敷を出る。

以前はあれほど恐くてならなかった外出なのに、今は不思議なほど心が落ち着いていた。


それどころか、早く目的の市に着かないかと気が逸るほどだったのは、きっとこれが紅月のための買い物だからだ。


少しでも、紅月の支えになりたい。

彼に、元気になってほしい――


そう思えば、不安も恐怖も跡形もなく薄れて消えてしまうのだった。


「あら、あなた、その綺麗な銀色の髪……もしかして、梔子ちゃんじゃない?」

「まあほんと! 今までずっと苦労してきたんだってねえ。あんた、ほんとに今までよく頑張ってきたもんだよ」


市に着くなり、梔子は早々に人々の注目を浴びた。


集まってきた誰もが梔子を励まし、褒めてくれることに心の底から驚かされる。


けれど、梔子は早く目的を果たし、屋敷に帰らなければならない身だ。


いつまでも戸惑ってはいられなかった。


「あ、あの」


勇気を出して、声を発する。


「探しているものが、あるのですが」



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