七.旅の始まり ―6
*
ふと聞こえてきたのは、秋の虫の声だった。
(ここは……)
わずかに光を感じて、梔子はゆっくりと目を開ける。
はじめに見えたのは、見慣れない天井だった。
どうやら窓辺から月明かりが差しているようで、天井の一部分が青白く照らされている。
吊るされている電灯は消されていて、今が真夜中であることが窺えた。
やがて梔子は、虫の音にまぎれるように、かすかな寝息が聞こえてくることに気づく。
かたわらに視線を向ければ、そこには、
(紅月さま……?)
紅月は梔子が寝かされていた寝台の端に頭をもたせかけ、固く目を閉じていた。
それからまもなく、部屋にほのかに薬の匂いが漂っていることや、寝台の横に点滴の袋を吊すための台が置いてあったことから、ここがどこであるかを理解する。
(ここは……病院なのだわ)
そこでようやく、なぜ自分が病院にいるのかを思い出す。
出航する船を目にした途端、立っていられないほどに激しい頭痛に襲われたこと。
駆けつけた医者に助けられて、それで……
「……梔子?」
その時、聞こえてきたのは紅月の声だった。
どうやら、梔子がわずかに身じろぎをしたせいで、彼を起こしてしまったらしい。
「紅月さま……」
紅月はしばらくの間、呆然として梔子を見つめていた。
まるで、梔子が目を覚ましたのが奇跡だとでも言わんばかりに。
けれどやがて、彼はたまりかねたように梔子の手を取り、その手の甲の上に額を伏せた。
紅月の声は安堵のせいか、思わず心配になってしまうほどに掠れ、震えていた。
「……よかった。貴女が目を覚まして、本当に……本当に、よかった」
その声を聞くだけで、梔子が目を覚ますまでの間、どれほど紅月が心配していたのか、痛いほどに伝わってきた。
おそらく彼は、梔子が往来で倒れてからというもの、こうしてずっとそばに付き添っていてくれたのだろう。
あまりに申し訳なくて、胸が締めつけられるように痛くなる。
「ごめんなさい。たくさん……ご心配を、おかけしました」
「謝らないで、梔子。もうどこも痛くはないかい? どこか苦しいところは……」
「大丈夫です。もう、どこも、痛くも苦しくもありません」
「本当に? 嘘をつくのも、無理をするのも絶対にやめてほしい。でなければ……また貴女の身に何かあったらと思うと、私はもう、どうしたらいいかわからない」
梔子はすぐに答えることができず、口をつぐんだ。
紅月がこんなにも憔悴しきっているのを見るのは、初めてのことだったからだ。
それほどまでに、彼は梔子を心配してくれていた。
梔子を、かけがえのない存在として想ってくれているのだ。
それをこの上ないくらいに思い知らされた気がして、温かなもので胸がいっぱいになるのを感じる。
きゅっと手に力をこめ、紅月の手を握り返した。
彼に少しでも安心してほしくて、大丈夫だと伝えたくて、ゆっくり、けれどはっきりと言葉を紡ぐ。
「紅月さま。私……嘘は、言いません。本当に、もう大丈夫です。ありがとうございます。ずっと……おそばにいてくださって」
ありったけの想いをこめた言葉は、紅月に伝わったようだった。
紅月は何も言わなかった。
言葉の代わりに、彼は梔子の手に一度だけ口づけをして、また包み込むように手を握ってくる。
彼の背は、かすかに震えているようだった。
それからしばらくは、そうして互いの温もりを確かめ合うように、沈黙の時間が続くかに思われたが――
きゅるる、と二人の間に割って入ったのは、掛け布団越しにもはっきりと響く、腹の虫の音だった。
「……あ」
「え」
慌ててお腹を押さえて我慢しようとしても、無駄だった。
あたりは静かで、小さな音でもよく響く。
立て続けにきゅるきゅると音が鳴るほどに、梔子の頬は朱に染まった。
紅月はぽかんとして梔子を見つめていたけれど、それもほんのわずかな間にすぎなかった。
「……ふ」
彼はふっと目元を和らげたかと思うと、もう堪えきれないとばかりに笑い出す。
心底おかしくてたまらないというような笑い方に、梔子はつい彼を責めずにいられなかった。
「そ、そんなにお笑いにならなくても、よいのではありませんか……?」
「……っふふ……ああ、すまない。どうか許してくれないか。なんだか、急に安心してしまったんだ。そうしたら、笑いが……」
紅月はなかなか笑いが止まらないらしかった。
だんだん恥ずかしさが募って、梔子が掛け布団を引っ張り上げて顔を隠そうとすると、その仕草もまた面白かったのか、彼は余計に笑いを深めてしまう。
はじめこそ、そんなに笑うなんて、と思っていたけれど。
――紅月が笑っている。
心の底から、楽しそうに。
彼が笑っているのを見るだけで、こんなにも心が温かくなるのはなぜなのだろう。
やがて、ああ、好きなのだ、と梔子は思った。
この方の笑っている顔が、私は本当に好きなのだ、と。
気づいた頃にはもう、恥ずかしさもささやかな抗議の気持ちも、すっかり薄れてどこにもなくなっていた。




