七.旅の始まり ―5
けれど、目眩がひどくなり、ぐらりと身体が傾いたのはそれからまもなくのことだった。
意識が徐々に遠のく中、紅月が梔子の名を呼ぶ張り裂けそうな声が聞こえてくる。
暗くなりつつある視界の中。
目に飛び込んできた彼の顔は血の気が失せ、青ざめきっていた。
(ごめんなさい……紅月さま)
それは、いよいよ痛みに耐えきれなくなり、梔子が意識を手放そうとした、その時のことだった。
「――きみ、少しいいだろうか。そのお嬢さんをこちらに」
聞こえてきたのは、低く柔和で、落ち着いた響きをした男の声だった。
声の主と思われる男によって、梔子はすぐに地面の上に横たえられる。
「安心しなさい。私は医者だ。きみはこのお嬢さんのご夫君かね? それならば、すぐに馬車を連れてきてほしい。その間に私が彼女を診ていよう」
医者だと身分を明かしたその男は、紅月や周囲の人々にてきぱきと指示を出していく。
それから、持っていた鞄から医療器具を取り出して、さっと梔子を診察していった。
医者が来てくれたという安心感からか。
全身の力が抜けて、ついに目も開けられなくなってくる。
「銀色の髪……」
意識を真っ黒に塗りつぶされながら聞いたのは、かすかに呟く医者の声だった。
「葉室の娘と同じ……。あれから何年が経ったか……もしや、この子は……」
葉室。
それは、かつての梔子の名字だ。
そしてこの医者は今、葉室の娘と口にした。
(この方は、私の父さまを知っているの……?)
尋ねることはできなかった。
目の前が暗くなり、すべての音が遠のいていく。
「ああ、馬車が来たか。よし、すぐに病院へ! 急病人だ! 皆、道を空けてくれ!」
そう、医者が叫ぶのを聞きながら。
泥沼に引きずり込まれるように、梔子は眠りの底へと落ちていった。
*
――ああ、まただ。
目を開いた瞬間、梔子は悟った。
また私は、夢を見ている、と。
気づくと梔子が立っていたのは、茜色の夕陽が差す廊下だった。
梔子は手に花を持ち、どこかへ向かおうと歩いている。
するとどこからか、声が聞こえてきた。
『梔子ちゃん、またあの子のところへ行くの? 聞いたよ。あの子、ここに来た時から飲まず食わずどころか、一日中動きもしない。どれだけ話しかけたって、何の反応もないんだって。あんたも、もう関わるのはやめときなよ。何したって無駄だって、看護師さん達だって陰で話していたんだよ』
『みんな噂してるぜ。何があったかは知らないが、あいつはもう完全に心が壊れちまってる。前の病院だって、それでお手上げになって、智行先生に押し付けてきたらしいってよ』
……あいつって、誰……?
(私……。私、は……)
その瞬間。
硝子が弾け飛ぶような激しい音が、頭の中に響き渡る。
最後に聞こえたのは、誰かにそっと呼びかける、自分自身の声だった。
『……また、来ますから』
『…………』
答えはない。その日も。
それでも梔子は、ほんのわずかな希望だけを頼りに、彼に声をかけ続ける。
心を壊してしまった彼が、答えてくれるはずもないと知りながら――
『また来ますから。……紅月さん』




