七.旅の始まり ―3
「ありがとうございます。……いただきます」
ひと口かじると、カステラと羊羹の甘みがふんわりと舌を包み込み、ついつい頬を緩めてしまう。
そんな梔子を見て、紅月は自分もシベリアを食べながら、嬉しそうに微笑んでいた。
「よかった。また貴女がそんなふうに、美味しそうに食べてくれるようになってくれて」
「…………」
なんとなく気恥ずかしくて、梔子はほのかに頬を染めて下を向く。
夏風邪の症状が軽くなり、梔子がようやく起き上がれるようになったのは、九月になってからのことだった。
寝込んでいた間、ほんのわずかな粥と果物のほかは何も食べられなかったせいか。
梔子の身体は八條家にいた頃のようにやせ細り、食欲もなくなって、少しの米と味噌汁の他はほとんど食べられない日々が続くようになってしまった。
少し動いただけで疲れてうずくまってしまうことも頻繁にあって、つい最近まで、紅月をどれだけ心配させたかわからないほどだったのだ。
それでも、梔子は少しずつ食欲を取り戻し、前のように家事もできるようになってきた。
そうして九月も終わり頃になって、やっと体力が回復し、待ちかねていた遠出ができるようになったのだった。
車窓の外に見えていた帝都の景色は、あっという間に小さくなっていった。
これから梔子と紅月が向かうのは、帝都から汽車で一時間ほどのところにある大きな港町。
紅月が言うには、梔子を連れていきたい場所というのは、その町にあるのだという。
駅からは離れたところにあり、その場所に着くには少し時間がかかるらしい。
そのため、今夜はその町に一泊することになっていた。
汽車に乗ってしばらく経った頃、そうだ、と思い立ち、梔子は切り出す。
「あの、紅月さま。改めて、お礼を言わせてください。本当にありがとうございました。何日も看病していただいて……」
「梔子。貴女がそうやって改まってお礼を言ってきたのは、私が覚えているだけでもう五度目だ。何度も言っているが、私はお礼をされるようなことなど何もしていないよ。まだ祝言は挙げていないが、貴女はもう私の妻だ。妻が病に苦しんでいるなら、看病するのは夫として当然のことではないかな」
「ですが」
……妻。
彼の口からはっきりとそう言い切られて、思いがけず心臓が跳ねる。
近頃の紅月は、よく妻や夫という言葉を口にのぼらせるようになった。
彼がまた梔子の反応を面白がるような笑みを浮かべているのが見えたが、それがわかっていても、込み上げる嬉しさと恥ずかしさから頬が赤らむのを抑えることができない。
「……それにね、梔子」
すると、しばらくして、紅月が窓の外を眺めながら言った。
うろこ雲の浮かぶ秋空の下、遠くに見える山麓まで広がるのは、黄金色の田園風景だ。
少し視線を上げれば、その上空には無数の蜻蛉が飛んでいるのが見えて、日に日に秋が深まっているのを感じさせられる。
けれど彼はそんな美しい秋の風景ではない、どこか遠くを見るような眼差しをして話す。
「私も昔は、貴女に世話をされていた時期があるんだよ。その時、貴女が私にしてくれたことを思えば、私が貴女にしてきたことなど本当に些末なものだ」
「私が、紅月さまのお世話を……?」
ふと頭によぎったのは、寝込んでいた間に一度だけ見た、過去の記憶にまつわる夢だ。
夢の中で、紅月は車椅子に乗っていた。
梔子は車椅子を押して、彼と語らいながらどこかを歩いていたのだ。
それがどこかも、何を話していたのかも、少しも思い出すことはできないけれど――
少し迷ったけれど、どうしても気になって、梔子は紅月に尋ねてみようと切り出す。
「前に、夢を見たことをお話ししたかと思いますが……。夢の中で、紅月さまは車椅子をお使いになっていたのです。紅月さまは、お怪我をされていたのですか……?」
「…………」
紅月はしばらくの間、外を眺めたまま考え込むように押し黙っていた。
けれど、最後には話すつもりになったのだろう。
彼は頷いた。
その瞳にどこかもの悲しげな色が宿っているように見えたのは、きっと梔子の気のせいなどではない。
「……そうだよ。私は昔、とても愚かな企てをして、挙げ句、歩けなくなるような怪我を負ったんだ。その時に死ぬはずだった私がこうして生きながらえているのは、貴女の父君の智行先生と……そして、貴女のおかげだ」
「――……!」
「着いたら、すべてを貴女に話すよ」
そう言って、紅月は口を閉ざした。
彼の過去は、きっと、決して汽車の中で気軽に話せるようなものではない。
それきり沈黙し、深い翳りを帯びる横顔が、それを強く物語っているように思えた。
(紅月さまは……いったい、何を抱えていらっしゃるの……?)




