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六.ここにいたい ―11


          *


「何よ、これ! 汚れが少しも取れていないじゃないの!」

「申し訳ございません、お嬢さま! 何度も洗ったのですが、どうしても染みになってしまって……」

「言い訳なんて聞きたくないわ。もう一度洗い直しなさい。お前、本当に使えないわね!」


鞠花の足元では、女中が(ぬか)ずいて許しを請うている。

その女中に向かって、鞠花は手に持っていた着物を投げ捨てた。

それは、つい二日前、鞠花が篁紅月の屋敷を訪ねた時に着ていたもの。

泥の中に突き飛ばした梔子を打つ時に、汚してしまった着物だった。


(誰も彼も、みんな役立たずなんだから……!)


平伏し、着物を抱えて去っていく女中を忌々しく見送りながら、鞠花は少しも気分が晴れなかった。

紅月の屋敷を出たあの時から、ずっとだ。


「この……、このっ!」


鞠花は近くにあった文箱を勢いよくひっくり返すと、畳の上に散らばった手紙を無造作に掴み取った。

際限なく湧き立つ怒りに任せ、手紙をびりびりと引きちぎる。


このところ鞠花のもとに届くのは、非難の言葉が綴られた手紙ばかりだ。

内容など、読まなくてもわかる。

どの手紙も、鞠花が梔子にしてきたことを責め立てる文章が長々としたためられているのだ。


(口無し……! お前のせいで私は……!)


……屋敷に紅月が帰ってきた、あの後。

紅月ににべもなく突き放され、鞠花は屈辱に震えながら八條家に戻るほかなかった。


あんなにもみじめな思いをしたことなどほかにはない。


あの日以来、鞠花の頭には、ふとした瞬間に何度も何度もあの二人の姿がよぎるようになってしまった。


鞠花の時とは別人のように、梔子には優しく愛おしむような眼差しを向ける紅月の姿が。

雨の中、守り包むように紅月に抱きかかえられ、彼に身を委ねる梔子の姿が――


「口無し……!」


憎悪のこもった低い声で、鞠花は怨嗟を吐き出した。


「許さない……。私はお前を、絶対に許さないわ」


いずれ、必ず。

必ずあの憎い女を、絶望の底に叩き落としてやる――


部屋の外、廊下から誰かが走ってくる音が聞こえたのは、その時のことだった。

聞こえてきたのは、女中の声だ。


「失礼いたします、お嬢さま」

「何? 後にしてちょうだい。私、気分が優れないの」

「申し訳ございません。ですが、最上(もがみ)伊佐治(いさじ)さまがお見えになっているのです。旦那さまと奥さまがいらっしゃらないものですから……」

「……!」


最上伊佐治。

それは、ほんの少し前まで鞠花の婚約者だった男の名だ。

不動産の売買を生業とし、若くして庶民の身分から成り上がった男。


しかし八條家の評判が失墜すると、まもなく鞠花との婚約を破棄した。

そんな伊佐治が、今さら何の用があるというのか。


兼時と弥生子はちょうど外出していて不在である。


このところ、二人は金銭的な援助を求め、親戚や知り合いを訪ね歩くために屋敷にいないことが多かった。


今の八條家は、世間の評判が落ちるところまで落ち、伊佐治にも見放されて没落の運命がほぼ決まったようなもの。


誰一人として救いの手を差し伸べようとする者はいないようだが、悪あがきとわかっていても、一家は一縷(いちる)の希望にすがるしかない。


……兼時も弥生子も、しばらくは帰ってこない。

ならば、すこぶる気分が悪くても、鞠花が伊佐治と会うしかない。


(今さら何をしにきたというのよ、あの男……)


内心の苛立ちをどうにか静め、鞠花は女中に命令した。


「……わかったわ。客間にお通しして。私が出るから、急ぎ支度を手伝いなさい」


手早く身なりをととのえて客間へ向かうと、そこには鞠花が嫌悪してやまない男が茶を啜りながら待ち受けていた。


人力車夫さながらのどっしりとした体つき。

ぎょろりと大きな目は周囲を威圧するような力を持ち、膨らんだ鼻は脂でてかりを帯びている。

身につけている服も、持ち物も、これ見よがしに最高級品だ。


「お久しぶりですね、鞠花嬢。いや、相変わらず貴女は並外れてお美しい」

「……ごきげんよう、最上さま。お待たせしてしまったこと、どうかお許しくださいませ」

「何を仰る。約束もなしに突然押しかけたのは俺なんですから、お気になさらんでください」


鞠花が伊佐治の向かいに座ると、まもなく女中が近づいてきて鞠花の手元に茶を置いた。

茶を飲んでどうにか嫌悪感をやりすごし、本題に入る前の雑談を耐え凌ぐ。


やがて伊佐治は鞠花の他に誰も現れないことに気づいたか、首を傾げながら尋ねてきた。


「……して、もしかして今日は、兼時殿と弥生子さんはいらっしゃらんのですね?」

「ええ。ちょうど外に出ていたもので」

「そうでしたか。ならば別の日に改めて伺いましょう。なに、今日はちょうど近くを通りかかったもので、少し立ち寄らせてもらっただけなんですよ」

「まあ、そうだったんですの」


本当に、この男は何をしに来たのだろう。


八條家の惨状をあざ笑いに来たのだろうか。

あるいは、自己顕示欲の強いこの男のことだ。

羽振りのよさを見せつけるためか。


膨れ上がる苛立ちを抑え込み、何とかにこりと微笑むだけで鞠花は精いっぱいだった。


「ええ。それなりに大事な話なのでね、兼時殿抜きでは進められない。あまりお邪魔になってもいけないし、今日のところは退散しますよ。だけど、用向きだけ伝えておこうかな。前もって兼時殿に伝えていただけますかな」

「わかりましたわ。必ず父に伝えます」

「感謝しますよ、鞠花嬢。それじゃ……実はですね、今日、俺がここに来たのは、ある提案をするためだったんですよ。その提案にご協力頂けるんであれば、貴女がた一家を存続させるのに充分な資金をお贈りしましょう、という話だったんです」

「は――?」


そうして、待ちかねたように伊佐治が語った話に。

鞠花は耳を疑い、呆然となった。



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