六.ここにいたい ―10
「それでいいんだよ、梔子。貴女の帰る場所は、ここだ。だから、もうそんなふうに泣かないで」
「…………っ」
ふわりと、優しい口づけが降りてくる。
梔子の瞳から零れた涙を指先で拭いながら、紅月は何度も口づけて、ゆっくりと梔子の唇を愛おしんでいく。
温かいもので全身が満たされていくのを感じながら、彼の口づけに答えた。
縋るように紅月の着物の布地を握ると、そっと身体を抱き起こされる。
彼は梔子を膝の上に抱きかかえると、冷えないようにと掛け布団を引き寄せて梔子の身体にかけながら、淡い口づけを繰り返した。
「……っぁ、……っ」
口づけの合間に、濡れた声が唇から溢れ出る。
甘くて、幸せで。
いつしか梔子は、冷えた夜中の空気に寒気を覚えていたのも忘れて、唇から伝わる熱に酔いしれていた。
けれどやがて唐突に紅月は口づけをやめて顔を上げた。
潤んだ目で見上げると、彼は申し訳なさそうな顔をしている。
「すまない、梔子。貴女は弱っているのに、つい……。息が苦しかっただろう?」
「いいえ、そんなこと……。あの、……その、嬉しかったです。私、紅月さまに、触れていただけるのが……」
言いかけて、途中から頬にじわじわと熱が昇っていくのを感じた。
紅月に触れられるのが嬉しい、なんて、そんなことをつい言ってしまったけれど。
……これでは、もっと触れてほしいとねだっているように聞こえるかもしれない。
そう思うと、恥ずかしくて顔を上げていられなかった。
とっさに顔をそむけて掛け布団を引っ張り上げたけれど、そんな梔子の仕草が、紅月の目には面白く見えたらしい。
頭上から聞こえてきたのは、彼がくつくつと笑う声だった。
居たたまれなくて、恥ずかしくて、梔子はどうしたらいいかわからない。
「あんまり可愛いことは言わないでほしいな。我慢ができなくなってしまう」
そう言って、紅月はこれで最後というように額に口づけてくる。
そしてまた梔子をもとのように寝かせると、肩までふんわりと掛け布団をかけてくれた。
「さあ、もうおやすみ。私はずっとここにいるから、何も心配しないで、ゆっくり眠るんだよ」
「……はい。おやすみなさい、紅月さま」
「ああ。おやすみ、梔子」
「…………。あの、紅月さま」
ふと、あることを思い出して、梔子は声を上げた。
「お願いがあるのです。お時間がある時で構いません。私に……以前の紅月さまと私のことを、教えていただけませんか」
「…………!」
紅月は息を呑み、瞠目していた。
彼はやがて、何かをためらっているような声で言ってくる。
「梔子。もし、昔を覚えていないことが私に申し訳ないからとか、そういうふうに考えているんだったら、気にしなくていいんだ。前も言ったように、私は貴女といられるだけで充分に幸せなのだから」
やっぱりだ。
紅月の言葉から、もしかしたらと考えていたことが当たっていたのがわかる。
……紅月がかつての関係や出来事について話そうとしないのは、梔子のためなのではないか、と。
少しの間、梔子はためらった。
今から切り出す話は、もしかしたら、的外れなものかもしれない。
もし梔子の勘違いだったら、思い上がりもいいところだし、紅月を戸惑わせることにもなる。
そう思ったからだ。
……けれど。
深く息を吸い、心を決めて、梔子は切り出した。
「紅月さま。私は……夢を見たのです」
「夢……?」
「はい。夢の中で、私はまだ、幼くて。車椅子に乗った紅月さまとお話ししていました。そして、あなたはペンダントを私にくださったのです。……私をずっと助けてくれた、ペンダントを。このペンダントは……母さまの形見ではなかった。あなたがくださったものだった」
「…………」
紅月は言葉もなく、梔子の話を聞いていた。
梔子が彼に語ったのは、熱を出して眠った夜、偶然に見た夢の中の出来事だ。
それは、単なる夢というには、あまりに現実味を帯びた光景で。
もしかしたら、梔子が夢に見たのは、過去に本当にあったことなのかもしれない。
そう思って、梔子は夢に見た出来事を、紅月に打ち明けることを決めたのだ。
「その夢の中でも、紅月さまは私に優しくしてくださいました。私も、あなたといるのがとても楽しくて……幸せで」
そこで一度、言葉を止める。
もはや梔子は、その夢がただの夢ではなかったこと、やはり過去の記憶を夢に見たのだということを確信していた。
そう、あの幸福な夢が、本当にあったことならば――
ペンダントをきゅっと手の中に握りしめる。
それからためらいを振り捨てて、再び口を開いた。
「間違っていたら、ごめんなさい。思い上がりも甚だしいと、笑ってくださって構いません。私は……、私と紅月さまは、本当は、もうずっと前から、想い合う仲だったのではありませんか……?」
紅月は目を見開き、呆然として、梔子を見つめていた。
彼からの答えは、なかなか返ってこなかった。
それなりの確信から尋ねたことではあった。
けれど、紅月からの答えを待つ間に、梔子の胸には次第に不安が募ってくる。
(……私は、やっぱり……見当違いなことを言ってしまったのかもしれない)
けれど、梔子の考えが当たっているなら、過去のことを紅月が話したがらないのはなぜなのか、はっきりと思い当たるのだ。
紅月は優しい人だ。本当に。
だから彼は、梔子を悩ませないために何も語らなかった。
かつて恋人どうしだったなどと知ったなら、それなのに何も覚えていない梔子は、きっと罪悪感に駆られてしまう。
彼はそう考えて、口を閉ざしていたのではないか――
「紅月さま」
もう一度、梔子は切り出す。
迷いも、不安も、ひといきに振り捨てて。
「私は……いつまでも、あなたの優しさに甘えているままではいたくないのです。お願いします。私が忘れてしまっていることを、どうか……教えてください」
「…………」
長い、長い、沈黙があった。
紅月は迷っているようだった。
彼の瞳はいつになく揺れている。
けれどやがて、紅月は一つ息をついて目を閉じた。
そうして再び目を開けた時、彼は今まで見たことがないほどに真剣な光を瞳に湛えて、梔子を見つめてきたのだった。
「……そうだよ。貴女の言う通り、私達はかつて、想いを確かめ合った仲だった。そして私はこの国を出る前、貴女に誓いを立てたんだ。私は必ず、外つ国で名を上げてこの国に戻り、貴女に会いに行く。その時はどうか、この手を取ってほしいと」
「――……!」
「……やはり、驚かせてしまったかな」
そう言って、紅月は苦笑した。
それから、また張り詰めた表情をして、彼は続ける。
「梔子。貴女を連れていきたい場所があるんだ。貴女が元気になったら、一緒に行こう」




