六.ここにいたい ―9
「――ん……っ!」
深く、強く、唇を塞がれた。
角度を変えて、紅月は唇を甘噛みするようにもう一度口づけてくる。
「ん、んっ……! 紅月、さま――」
何度も何度も唇を食まれ、背筋にぞくりと走ったのは、甘く切ない痺れだった。
次第に唇を愛するだけでは足りなくなったのか、口づけは下へと移っていた。
紅月は梔子の首筋に顔をうずめると、熱で火照った肌に唇を寄せてくる。
首筋の柔いところに口づけられ、舌先で掠めるように舐められれば、堪えきれずにあえかな声が出てしまった。
……蕩けそうになる。
このまま、溺れるほどの愛を注がれていたいと、愚かな願いを抱いてしまう。
だから――このままではだめだ。
痛い。
痛い。
胸が、抉られたように痛い。
それでも梔子は、震える手を動かし、紅月の身体を押し返した。
「梔子……?」
「……お願いです。もう……私には、関わらないでください」
「梔子、貴女は何を」
「私がここにいたら……、紅月さまが悪く言われてしまいます……!」
鼻の奥がつんとする。
大声を出した勢いで、涙が溢れた。
途端に、目の前がぐちゃぐちゃに歪んで見える。
「鞠花さまの、言っていたことは……嘘などでは、ありませんでした。私のせいで、あなたのことが悪く書かれて――」
「私のことが悪く書かれている……?」
紅月はいぶかしげに目を細めた。
けれどまもなく何かに思い当たったのか、ああ、と声を上げて言う。
「もしかして、ここに落ちていた雑誌のことかな? 後で処分しようと思っていたが……」
「え――」
紅月は部屋の隅に目を向けた。
そこには無造作に投げ出された雑誌がある。
鞠花が梔子に見せつけてきた、あの雑誌だ。
紅月は雑誌を持ってきて座り直すと、ぱらぱらと流し読みするように頁を眺めていく。
「ふうん。相変わらず面白い言われようだ。この雑誌の編集部はよほど私がお気に入りらしい。だが私はいいとして、梔子を化け物呼ばわりするとは許しがたいな」
「あ、あの……」
「梔子。貴女はおそらく、鞠花嬢にこの雑誌を見せられて脅されたのだろうが、こんなものを気にする必要はない。もともとこの雑誌の発行元は、名のある人間をこき下ろすのが大好きなところでね。梔子がここに来る前から、私はあることないことずいぶんと書き散らかされてきたものだ。取るに足りない、低俗な記事ばかりの雑誌だよ」
「……、そう、なのですか……?」
「ああ。……そうだ。本当は、貴女には明日、見せようと思っていたのだが……」
すると、紅月は再び部屋を出ていった。
まもなく帰ってきた彼の手には、切り花を挿した透明な瓶があった。
小さく愛らしい野の花だ。
蛍袋に露草……
「この花は……」
「昼間、薬をもらいに病院へ寄った時、居合わせた少女にもらったものだよ。貴女に渡してほしいと言われてね。貴女の病気が早く治りますようにと、そう祈ってくれていた」
「え……」
「どうやら街を歩いたあの日に、大勢の人々が貴女に魅了されたようだ。多くの雑誌が貴女を素敵な女性として取り上げていたよ。それに、もしかしたら貴女はいい気がしないかもしれないが……貴女が八條家でどんな扱いを受けていたか、詳しく知らせるような記事もあった。この雑誌の発行元のように心ないことを書くところもある。だが、ほとんどの人々が貴女を好きになったんだ。今までずっと苦しんできて、それでも懸命に生きてきた貴女に、幸せになってほしいと皆が願っているんだよ」
紅月の話は、にわかには信じられないものだった。
梔子はずっと、皆の嫌われ者として、息を殺して生きていくしかないのだと思っていた。
それなのに、今は皆が幸せを願ってくれているなんて、そんなことが信じられるだろうか。
紅月が見せてくれた花を、もう一度見つめた。
名も知らぬ少女が、梔子のために摘んでくれた花。
素朴な野の花だ。
それなのに、どんな大輪の花よりも美しく、清らかに見える。
「この、花……」
「ああ」
「……綺麗、です。とても……」
「そうだね。私もそう思う」
いつしか泣いていたことも忘れて、梔子は紅月とともに野の花に見入っていた。
今はただ、花に込められた温かな心遣いが、嬉しくて仕方がない。
「これでわかっただろう、梔子。私達が一緒にいるのを悪く言っているような連中は、ほんの一握りだ。それでもなお、貴女は八條に戻りたいというのかい? 私の言葉よりも、鞠花嬢の言葉を信じると?」
「…………」
紅月の声は厳しかった。
曖昧な答えは許さないとでもいうように。
「……いいえ」
梔子は首を横に振った。
その拍子に、目尻にたまっていた涙がまた流れていく。
嗚咽をこらえきれずになかなか答えられずにいる梔子を、紅月は黙って待っていてくれた。
「いいえ……、いいえ! 八條のお屋敷に帰りたいというのは……嘘です」
そう。嘘だ。
梔子はもう、戻れない。
戻れないほどに梔子は、想われる幸せを、安らぎを、たくさん知ってしまったのだから。
「……本当は、ここにいたい。これからも、ずっと……紅月さまのいらっしゃるところに、いたいです」




