六.ここにいたい ―7
「……!」
離縁。
その言葉に、響きに、頭から冷水をかけられたような心地になる。
呆然とする梔子に、鞠花が追い打ちをかけるように言い捨てた。
「当然のことでしょう? お前に篁さまの妻なんて、とうてい無理な務めなんだから。それともお前、あの方に恥をかかせたいの? このままあの方の妻として暮らしていけるなんて考えているのなら、甘いわ。お前の考えは甘すぎるのよ」
――わかりました、と。
そう口にしなければならないのは、わかっていた。
鞠花の命令に従って、そして、行き場のなくなった梔子をまた八條家においてほしいと、そう許しを請わなければならないと。
だって、そうだ。
(鞠花さまの言っていることは、全部、正しい……。私は、紅月さまの評判を悪くして……ご迷惑にしかなっていない……)
紅月のそばにいたい。
これから先も、ここにいたい。
それは、梔子の身勝手なわがままにすぎないのだ。
(紅月さまのことを考えるなら、私は……、私は……!)
何も言えずにいる梔子に、ついに業を煮やしたらしい。
鞠花は庭に通じる障子戸に手をかけると、怒りをぶつけるように勢いよく開け放った。
飛沫を立てて降りしきる雨の下へと、思いきり突き飛ばされる。
瞬く間に泥と雨水で全身がずぶ濡れになった。
「思い上がるのも大概になさい!」
鞠花は自らも庭に飛び出して雨に濡れていた。
梔子の前髪を無理やり引っ張り上げ、何度も頰を打ってくる。
「何度も言っているでしょう!? 篁さまはお前には分不相応なのよ! 今はお前のことをお気に召されていても、お前は退屈で不器量な、何の値打ちもない女なのだもの! 遠くないうちにあの方はお前の本性を見抜いて、愛想を尽かすわ。そうしたら、お困りになるのは篁さまなんだから――」
「――誰が、何に困るというのかな?」
その声は、滝のように地を叩く雨の中でも、驚くほどよく響いた。
弾かれたように振り返った鞠花が、目を見開いて縁側を凝視する。
雨霧の向こう。
そこに立っていたのは、梔子がずっと帰りを待ち望んでいた人――紅月に違いなかった。
「……た、篁さま……」
呆けたように鞠花がその名を口にする。
紅月は雨の中に飛び出してくると、鞠花の手から梔子を奪い取った。
「…………。紅……月、さま……?」
ああ、なんて。
なんて罪深いのだろうと、梔子は思った。
紅月の声を聞き、彼の腕に包み込むように抱きしめられた途端、梔子の全身を満たしたのは深い、深い安堵だった。
紅月にとって、梔子の存在は害にしかならない。
だからどんなにつらくても、梔子は身を引かなければならない。
鞠花の命令に従って、八條家に帰らなければならない。
それを、嫌というほど思い知らされたというのに。
……帰りたくない。
そう、思ってしまった。
(……帰りたくない。私は……本当は、これからも、紅月さまのおそばに……)
紅月は梔子を安心させるように頰をそっと撫でてきた。
それから、梔子を抱き上げて立ち上がり、屋敷の中へ戻ろうと歩き始める。
「……なぜなんですの!?」
存在を一切無視された鞠花が紅月の背に声を放ったのは、その時のことだった。
「なぜ、その女なのです!? その女は不幸をもたらす女ですわ。その女を妻になさったら、遠くないうちにお困りになるのは、篁さま、貴方なんですのよ!?」
紅月は立ち止まったが、振り返りはしない。
ただ、ぞくりと背筋が粟立つほどに冷えた声で、彼は言った。
「梔子が不幸をもたらす? へぇ、そんな話は初めて聞いたな。いったい誰が言い出した戯れ言なのだろう。私は彼女と暮らして、喜びや幸せしか感じていないが」
「なっ……!」
「それにしても、鞠花嬢、貴女はいったい何をしに来たのかな。貴女をここへ招いた覚えが、私にはまったくないのだが。……まあ、おおかた、雑誌か何かで今の美しい梔子の姿を見て、矢も盾もたまらなくなったということかな。彼女が皆から愛され、応援されているのを見て、嫉妬に狂ったというわけか」
「……っ! そのようなわけでは……! 私はただっ――」
その瞬間、抜き身の刃のような視線が言いすがる鞠花に向けられた。
目の合った者を、瞬く間に凍らせんばかりの眼差し。
「黙れ。……言ったはずだ。二度と、彼女に関わるなと」
それは、普段の優しい紅月からは想像もできないほどの、激しい憎悪と殺気をはらんだ声だった。
「貴様のような下衆の言葉など、耳を貸すに値しない。出て行け。もう二度と、梔子の前にその卑しい顔を見せるな」
紅月のあまりの剣幕に気圧されたのかもしれない。
鞠花はもう、何も言わなかった。
彼はそれ以上鞠花を相手にすることもなく、梔子を抱いて屋敷の中へ戻っていく。
「……梔子」
疲れ果て、次第に暗くなっていく意識の向こうで、紅月の声がした。
梔子の名を呼ぶ、彼の声が。
「すまない、梔子。私は、また……貴女を守れなかった」
今にも雨音に消え入ってしまいそうな、掠れた声で。
あろうことか、彼が口にしていたのは謝罪の言葉だった。
(どうして……)
どうして、彼は謝るのだろう。
梔子を守れなかっただなんて、そんなことはない。
だって紅月は、また梔子を助けてくれた。
梔子が喜びや幸せをくれる存在だと、そうはっきりと言ってくれた。
それなのに、どうして――
けれど、問うことはできなかった。
雨を浴びて身体が芯から冷え切ったせいか、少しずつ意識が遠のいていく。
降り止まない雨の音と、空気を切り裂くような雷鳴を聞きながら、梔子は引きずり込まれるように眠りの底へ落ちていった。




