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六.ここにいたい ―5


「……こんなに顔を赤くして。貴女は本当に可愛い人だ」

「……だめ、です……。あなたに、私の風邪が、うつって……、んっ……」


再び降ってきた口づけは、まるで濃密な花の蜜のように甘く、頭がくらくらしてくるほどだった。


「……、は……、……っ」


たまらず息を乱し、目を潤ませる梔子に、紅月が答えた。

それはまるで媚薬(びやく)のように甘やかで、どこか妖艶さを帯びた声で。


「その心配は要らないよ、梔子。私の身体は、もともと丈夫にできているんだ。その証拠に、もう何日もずっと貴女のそばにいても、少しも体調は悪くない」

「……ん……、ぁ……っ……」


頬に手を添えられ、何度も、何度も接吻(せっぷん)を繰り返されると、梔子はだんだん何も考えられなくなっていった。


砂糖よりも甘い口づけに、酔いそうになる。

ただ、梔子は幸せで。

幸せすぎて。


(だめ……これ以上は、壊れて……)


次第に息を乱し、目を潤ませた梔子を見て、もう限界だと判断してくれたのか。

紅月はゆっくりと唇を離していった。


たまらず名残惜しむような吐息が零れ出そうになったのを、口を引き結んでどうにか堪える。


そんな梔子の額を愛おしそうに撫でて、紅月が言った。


「貴女は何度こうやって口づけさせたら気がすむのかな。……それとも、こうしてほしくて、わざと謝っている?」

「そんな……ことは……っ」


精いっぱい否定しようとして絞り出した声は、掠れて上ずってしまった。

恥ずかしくて、たまらず掛け布団を口元まで引き上げた梔子を見て、紅月が愉快そうに微笑んだ。


「行ってくるよ、梔子。すぐに戻る」

「……はい。あの……お気をつけて。行ってらっしゃいませ」


紅月は頷いて、また梔子の額をそっと撫でた。

それからまた、優しい口づけをくれる。


……ぱたん、と引き戸の閉まる音がして、彼は梔子の部屋を去っていった。


「〜〜……っ……」


彼の足音が遠ざかっていったのがわかった途端、梔子は堪えきれなくなったように掛け布団を頭まですっぽりとかぶり、顔を手で覆う。


手に触れた頬は、今にも発火しそうなほどに熱い。


ここで暮らすようになった頃から、紅月は梔子に甘かった。


けれどこうして倒れてからというもの、ともにいる時間がさらに長くなったせいか、彼の梔子への溺愛ぶりは目に見えて拍車がかかっているように感じる。


(こんなに甘やかされたら、私……)


つい唇に指先をのばすと、どうしてもさっきの口づけを思い出してしまう。

彼のくれた、花びらの降るような優しい口づけを。


頰に灯った熱は、その後もなかなか引いていかなかった。





……それからどれほど時が経っただろうか。


「――……っ……」


梔子ははっとして、穏やかなまどろみから目を覚ました。


どのくらい眠っていたのだろう。

眠る前と変わらず、障子戸の向こうからは雨の音が聞こえ続けていた。


朝よりも雨脚が強く、外には鈍色(にびいろ)の雨雲が垂れ込めているのか、部屋は灯りをつけようか迷うほどに薄暗い。


(紅月さまは……)


確か、紅月は午後には戻ると言っていたはずだ。


時計を見る。

帝都を歩いた日に彼が贈ってくれた、花や天使の彫刻に縁取られた舶来品(はくらいひん)の時計は、まもなく正午を示そうとしていた。


しかし屋敷はしんと静まり返っていて、紅月が帰ってきていないことは明らかだった。


(紅月さまは……まだ……)


その時だった。

薄暗かった部屋の壁が急にぴかりと白く光る。

かと思うと、直後、腹の底に響くほどの轟音(ごうおん)が屋敷をぐわりと揺るがした。


「――いやっ……!」


雷鳴だ。

音はあまりに大きかった。


ばくばくと高鳴る心臓を押さえ、掛け布団の下で己の身を抱きしめる。

すると、今度は桶をひっくり返したような雨が屋根を激しく叩き始めた。


ひどい雨だ。

真っ先に頭をよぎったのは、車で出かけていった紅月のことだった。


大雨の最中の運転は、視界が悪くなるせいで事故を起こしやすくなると聞く。


……事故。


「――……っ!」


か細い悲鳴が喉からひゅっと零れ出た。


脳裏によみがえるのは、すべてを失ったあの日の記憶だ。

汽車の残骸に押し潰され、変わり果てた姿となった、両親の――


さあっと血の気が引いていく。

がたがたと身体が震え出し、歯の根が合わなくなる。


嫌な予感がどうしても止まらなかった。


……もし。

もし、紅月が、帰ってこなかったら。


どこかで事故に遭って、彼が、両親と同じように……


がらっ、と戸の開く音が聞こえてきたのは、その時のことだった。


(あ……)


全身にどっと安堵が染み渡っていく。

紅月が帰ってきたのだ。


胸を覆い尽くしていた不安の霧が一気に晴れ、身体中の力が抜けていく。


彼はきっと、梔子のところへすぐに顔を出してくれるだろう。

今は一秒でも早く、彼の顔が見たかった。

だから、梔子はまだ怠さの残る身体に力を入れ、どうにか起き上がって……


けれど。


――何か、おかしい。


違和感を覚えたのは、まもなくのことだった。

何がどう、と言葉で説明することはできない。

ただ……違う。


梔子のいる部屋に少しずつ近づいてくるのは、紅月のものではない、別の人間の足音だった。


……紅月ではない。

そう確信した途端、背筋を戦慄(せんりつ)が駆け抜けていく。


ならば、誰なのか。

一部屋ずつ、立ち止まって中を覗きながら、誰かを探しているような気配を伝えてくる、この足音の主は。


恐怖のせいで身体は動かず、嫌な汗が全身に滲み出し始める。


(……嫌……来ないで……っ)


けれどそんな梔子の願いなど、虚しく。


「あら。こんなところにいたのねぇ、口無し」


凍りついた。


どうして、ここに。

何をしに、ここに。

わからない。


ただ、そこに悠然と立っていたのは、梔子が最も恐れていた人物だった。




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