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六.ここにいたい ―3


紅月にとって、静貴との付き合いはもう六、七年にもなる。


紅月と同じように、静貴には巴里(パリ)に滞在していた時期がある。

偶然に学生街で知り合うと、静貴は紅月の絵に惚れ込み、支援を約束してくれたのだ。


紅月にとって、仏蘭西(フランス)はまったく未知の国だった。

言葉も通じず、誰一人知り合いもおらず、はじめの頃、紅月は何の援助も受けられずに孤独な学生として過ごすほかなかった。


そんな紅月の境遇を憂えて、静貴は金銭的な支援をしてくれたり、巴里の絵画サロンに紅月の絵を売り込んだり、援助をしてくれていたのだ。


見かけは怜悧(れいり)そうでいて、実のところは情に厚く、信頼した人間のためなら助力を惜しまない。


長年の付き合いを通して、静貴がそういう人間であることを紅月はよく知っている。


だから静貴は、本気で紅月を案じてくれているのだろう。

……だが。


(言えるわけがないだろう。……かつて、私と梔子が将来を誓い合っていたなんて)


梔子はどう思うだろうか。


昔、自分達が恋人どうしだったなどと聞かされたなら。

いつかまた会えたなら、その時は一緒になろう。

かつて二人で、そんな約束をしていたのだと聞かされたなら。


……梔子は、聡明で思いやり深い娘だった。

初めて出会った九年前のあの頃から、何も変わらずに。


『紅月さまの、こと……思い、出せなくて……ごめんなさい……』


紅月が何も言わずとも、彼女は失った記憶があることに気づいていた。

そして思い出せないことを、紅月に対してひどく申し訳なさそうに謝ってきたのだ。


だから、もし、かつての関係を梔子に伝えてしまったら。


(……彼女は、優しい人だ)


きっと、梔子は自分を責めるだろう。

かつての記憶を思い出せないことを、深く思い悩むだろう。


それに梔子は、両親を目の前で失った衝撃がもとで記憶を失ってしまったのだ。

むやみに昔のことを伝えれば、彼女は過去の記憶を刺激されて、苦痛に苛まれることになるかもしれない。


そんなふうに彼女を苦しめるくらいなら、昔のことなど何も伝えるべきではないと紅月は思っていた。

それは梔子と再会したその時から、少しも揺るがない考えだった。


(さて……)


自室を出て、紅月は再び梔子の部屋へと向かった。


幸い、梔子は目を覚ましていないようだった。

穏やかに眠る彼女の姿に、紅月はほっと安堵する。


……と、その時、紅月の目にとまったものがあった。


梔子が、手に何かを握っている。


(あれは……)


鎖のようなものが、彼女の手から零れ出ているのが見えた。

緩んだ指の間から垣間見えたのは、一輪の薔薇が彫り込まれたカメオだ。


――梔子が、ずっと心の拠り所にしてきたというペンダント。


彼女のペンダントには、もうずっと昔から見覚えがあった。

それも、そのはず。

梔子の持っていたペンダントは、まぎれもなく、かつて紅月が梔子に贈っていたものなのだから。


(……梔子。記憶を失っても、貴女はそのペンダントをずっと大切にしてくれていたんだね)


あの舞踏会の夜、梔子がペンダントを持っていたのを知った時。

そして彼女が毎日身につけてくれているのを目にした時、紅月はどれほど嬉しかったことか――


行灯の明かりを消すと、部屋は暗闇に包まれる。

しとしとと、涙のような雨音が、静かに響き続けている。


「……おやすみ、梔子」


ひそやかな声で告げて、紅月はそっと部屋を出た。




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