六.ここにいたい ―2
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それから数日の間、空には鈍色の雲が立ち込め、雨ばかりが降る日々が続いた。
野分の多い季節だ。
この分だと、しばらくは晴れ間の見えない日々が続くのかもしれない。
(……よかった。どうにか乾いたか)
梔子が床に伏してから、今日で六日が経っていた。
衣桁にかけていた白藤色の着物に触れて、紅月は小さく息をついた。
雨の止んだわずかな間に洗濯をし、朝から干していた着物だ。
ここ数日は雨がめったに止まないせいで、洗ったものは部屋の中に干すしかない。
当然のこと、乾くのにもかなりの時間がかかっていた。
たたんだ着物と帯を持って、紅月が向かうのは梔子の部屋だ。
すっかり暗くなった廊下を歩いていくと、行灯の明かりが漏れる部屋の前に差しかかる。
「梔子、入ってもいいかな。着替えを持ってきたんだ。眠る前に着替えて……」
言葉を最後まで続けず、紅月は口を閉じた。
いつもなら、梔子はすぐに返事をしてくれる。
けれど今、部屋の中から返事はなく、彼女が身じろぎをする音もまったく聞こえてこなかったからだ。
なるべく音を立てないように、そっと戸を開けた。
静かに部屋に入り、布団のそばまで歩いていく。
思った通りだった。
彼女は眠っていた。
すう、すう、とかすかに聞こえる寝息は安らかで、ほっと胸を撫で下ろす。
……よく眠ってくれているみたいだ。
梔子の穏やかな寝顔を見ていると、深い安堵を覚えずにはいられない。
というのも、おそらくは虐げられていた頃の夢を見てしまったのか、彼女がうなされている姿を、紅月は何度も目にしてきているからだ。
梔子は夢から覚めてなお、青ざめた頬に涙を伝わせていたものだった。
そんな彼女を抱きしめ、ただただ大丈夫だと繰り返すしかない自分の無力さが、どんなにもどかしくて仕方なかったことか。
これ以上、彼女には苦しんでほしくない。
安らかであってほしい。
たとえこれからどんなことが待ち受けていたとしても、この身と引き換えにしてでも、自分が彼女を守りたい、と。
紅月はそう心に誓わずにはいられなかったのだった。
すると、部屋の外から音が聞こえてきた。
電話のベルだ。
こんな時間にいったい誰が。
余計な音で梔子の眠りを妨げたくなかった紅月は、電話口で文句の一つでも言ってやろうかと思いながら、足早にベルの鳴る方へと向かった。
電話を取ると、交換手がつなげたのは静貴だった。
「なんだ、静貴か。こんな時間にいったい何の用なのかな。どうでもいい用件ならご遠慮いただきたいんだが」
やや大げさにうんざりした声を出すと、静貴はきまり悪そうに言った。
『夜遅くなってしまったのは悪かったと思っているがね。しかし僕だって昼間は仕事があるんだ。そこまで露骨に嫌そうにしなくてもよいのではないかね』
「梔子がやっとよく眠ってくれているんだ。彼女が起きてしまったらいったいどうしてくれるのかな」
『僕が電話したのはその件だ。……その、どうなのかね。梔子さんの具合は、まだよくならないのか?』
電話の向こうから聞こえる静貴の声は、ひどく心配そうだった。
静貴もまた、心から彼女を案じているのがわかる。
梔子が臥せってからというもの、こうして静貴が電話をしてくるのはもう二度目だ。
一昨日も見舞いの品として、静貴の家の使用人が果物を持ってきていた。
どうも、先日の再会以来、静貴は梔子のことが大いに気に入ったらしい。
「まだ熱は下がりきらないが、身体はだいぶ楽になったと言っていたよ。ただ、梔子は普段から無理をするところがあるから、彼女がそう言っているからといってまるきり信用するわけにはいかないが。……ああそれから、お前がくれた桃について、お礼を伝えてほしいと頼まれていたんだった」
『礼には及ばないさ。だが、そうか。ならば、梔子さんは喜んでくれていたのだね』
何やら嬉しげな静貴の声に、紅月はどうにも面白くない気分になる。
はあ、と思わずため息をつき、口を尖らせずにはいられなかった。
「先日から思ってはいたが、静貴、お前はずいぶんと彼女に入れ込んでいるようだね。お前は確か、今まで女性になどほとんど見向きもしなかったはずなのに。いったいどういう風の吹き回しなのかな」
『なんだね、紅月。まさか、僕が梔子さんに横恋慕するとでも思っているのか? 確かに梔子さんはとても魅力的な女性だが、彼女はきみが長年恋い焦がれていた相手だろう。親友の婚約者に懸想をするような見下げた男だと思われるのは心外なんだが』
やれやれ、と呆れと苦笑の混じったような声が受話器から聞こえてくる。
『まったく……。紅月、きみに自覚があるのかどうかはわからないがね、きみは梔子さんのこととなると、途端に大人げなくなるようだ。先だっての件だってそうだ。僕は梔子さんに直接会って謝りたいと何度も言ったのに、きみときたら、彼女を不愉快な気持ちにさせたくないからだめだとか、なんだとか、ごちゃごちゃと……。まさか梔子さんから僕の方へ出向いてくれるとは思わなかったよ』
「当たり前じゃないか。梔子は今まで、口にするのもおぞましいくらいにひどい目に遭わされ続けてきたんだ。なのにお前ときたら、そんな彼女に聞き捨てならない暴言を吐いた。会わせたくないと思うのは当然だろう?」
『……その件については心から反省している。本当に悪かったと思っているよ』
静貴から返ってきたのは、消沈した声だった。
その声だけで、静貴があの日の言動を悔いていることはよくわかる。
静貴が梔子に対してあれこれと世話を焼きたがるのは、あの一件での罪悪感も関係しているのかもしれなかった。
ところで、と静貴が言う。
『前から気になってはいたんだが、なかなか訊けずにいたことがあってね。……紅月、きみは、以前のきみ達のことを梔子さんに教えるつもりはないのかね?』
「…………」
答えに詰まって、つい沈黙してしまう。
以前の梔子と紅月。
梔子が八條家に引き取られる前。
そして紅月が外つ国へ留学に出る以前のこと……
けれどすぐに我に返って、紅月ははっきりと言い切った。
「ないね。あの家から出て、梔子はようやく、少しずつ笑うようになってきたばかりなんだ。それなのに昔のことを持ち出して、彼女を困らせたり混乱させたりするような真似はしたくない」
紅月の答えに、静貴は虚を突かれたようだった。
一瞬息を呑んだような間の後、彼は問い詰めるように言ってくる。
『……紅月。僕は友として、絵画の道を行くきみをずっと支援してきた。これまできみがどれほど梔子さんを想ってきたか、僕はよく知っているつもりだ。だからこそ、彼女がきみのことを何一つ覚えていなかったと聞いて、僕も心を痛めたのだ。……僕は、今のきみを見ているのがもどかしい。なぜ、きみは彼女に何も伝えようとしないのかね? 以前のきみ達の仲は――』
「静貴」
静貴の言葉を遮るようにして声を出す。
「心配してくれているのならありがたいが、今はその時じゃないんだ。もう一度言う。私は梔子を困らせたくない」
静貴がまだ何か言うのが聞こえた気がするが、紅月はためらわずに受話器を置いた。
(あいつの言いたいことはわかるが……)




