六.ここにいたい ―1
梔子が紅月と帝都を歩いた日から、すでに三日が経っていた。
今日も外では雨が降っているらしい。
あのデートの日の翌日からずっと天気が崩れがちで、屋根を濡らす雨の音が一日中聞こえ続けていた。
(朝、だわ……)
目を覚ました梔子は、時おり雨粒が吹きつけてくる障子戸にぼんやりと視線を向けた。
今日も夜まで雨が降り続くのだろうか。
朝にもかかわらず、部屋の中は薄暗かった。
(もう、起きなくては)
ゆっくりと身体を起こす。
まだ全身に怠さはあるし、少し動いただけでも頭がくらくらする。
けれど、昨日よりはずっと楽だ。
これならもう家事をしても問題ないはずだと思い、起き上がって布団を畳んだ。
手早く着替えをすませ、そっと部屋を出る。
まずは台所へ行って、食事の支度をしなくては――
だが、平気だと思っていられたのもその時までだった。
一升枡を持ち、米櫃から米を掬おうと屈んだ瞬間、目の前がぐらりと大きく傾ぐ。
「…………っ」
「――梔子!」
からんころんと一升枡が床に転がり落ちる音と、紅月の声が聞こえたのはほとんど同時のことだった。
気づけば梔子は、慌てて駆け寄って来たらしい紅月に身体を支えられている。
「……紅……月、さま……。ごめんなさい……」
「……まだひどい熱がある。梔子、私は昨晩も言ったはずだね。貴女はまだ寝ていなくてはいけないと。なのになぜ、貴女はこんなところにいるんだ」
「い、いえ……。私はもう……大丈夫、ですから……。これ以上、あなたに……ご迷惑をおかけするわけには」
医者によれば、梔子はひどい夏風邪を引いてしまったらしい。
完全に治るまでは十日以上かかってしまうかもしれないというのが、医者の見立てだった。
その見立ては当たっていて、なかなか梔子の熱は下がらず、咳や喉の痛みも収まらなかった。
もうまる二日もの間、梔子は寝込んでいた。
その間、紅月は家事をすべて担い、梔子の看病をしてくれていたのだ。
それが、彼の画業にどれほど差し障っていることか。
(大丈夫……。もう、充分……動けるもの)
確かに身体はまだふらつくけれど、大丈夫だと言えるのはこんなふうになるのが初めてのことではないからだ。
八條家にいた頃は、熱が出ても休むなんてありえなかった。
どんなに具合が悪かったとしても、いつも通りに働くのが梔子にとってごく当たり前のことだったのだ。
けれど、長い間八條家に閉じ込められ、外の世界などほとんど知らなかった梔子には、それが異常な扱いだったのだということがわからない。
「大丈夫なはずがないだろう」
紅月の声はいつになく厳しかった。
「……けほっ……、……っ」
咳が止まらなくなった梔子の背を、紅月がさすってくれた。
しばらくしてようやく咳が止まると、彼は梔子を抱き上げて歩き出す。
「……ごめんなさい」
結局、余計に紅月の手を煩わせてしまった。
紅月に手間をかけさせることしかできない自分に、どうしようもなく腹が立つ。
本当は、梔子をこんなにも大切にしてくれる紅月に少しでも恩返しがしたい。
もっと、彼の役に立てる自分になりたいのに――
「謝るのもなしだよ、梔子。貴女は何も悪くないのだから」
紅月の表情は真剣だった。
ともすれば怒っているようにも見えるほどに。
けれど優しい彼が怒るのは、それほどまでに梔子を心配し、大切に思ってくれているからだ。
「……っ」
こうやって優しくされるたび、梔子の胸には突き上げるような強い思いが湧き起こる。
(早く……。早く……)
やがて部屋にたどり着くと、紅月は梔子を布団の上にそっと横たえた。
それから水に浸した布で、梔子の肌に滲んだ汗を拭ってくれる。
「少し待っていて。食べやすそうなものを持ってくるよ。無理はしなくていい。食べられそうであれば、その分だけ食べてくれれば構わないから」
高熱で意識が朦朧としているせいだろうか。
もう、堪えることはできなかった。
紅月は梔子の食事を用意するため、部屋を出ていこうとする。
梔子は考えるよりも早く、彼の着物の袖を掴んで引き止めていた。
「梔子――?」
「……っ、は、やく……」
声が出た途端、ぼろぼろと大粒の涙が溢れ出てくる。
最近の梔子はちょっとしたことで泣いてばかりだ。
私はこんなにも弱かったのかと、すぐに泣いてしまう自分がどうしようもなく嫌になる。
泣きたくない。
そう思うのに、涙はやはり止めることができなかった。
「……わた、し……早く、治って……前、みたいに……紅月さまの、役に……」
歪んだ視界の向こうで、紅月が首を横に振るのが見えた。
「焦らないで、梔子」
紅月の声は胸が痛くなるほどに優しかった。
身をかがめて、紅月は梔子の額にそっと口づけを落とす。
涙を拭うように梔子の頰を撫ぜて、彼は言った。
狂おしいほどに、いたわりに満ちた声で。
「急いではだめだよ。少しずつ治っていくのを待つんだ。それまではどうか、ゆっくり休んでいてほしい。貴女は今までずっと、誰よりも懸命に頑張ってきたのだから」
いいね、と確かめるように、紅月は眼差しを向けてくる。
優しく、けれど有無を言わせない強い眼差し。
ようやく梔子が頷くと、今度は頬にちゅっと口づけられた。
「いい子だ」
そう言って、紅月は微笑みを浮かべ、幼子をあやすように頭を撫でてくる。
やがて彼が部屋を出て行くと、梔子は遠ざかっていく足音を聞きながら、思わずにはいられなかった。
(いいえ、紅月さま。私は……とても悪い娘です)
だって今、紅月にこれ以上迷惑をかけたくないと思いながら、彼の優しさがどうしようもなく嬉しいと感じてしまっている自分がいる。
誰かにこんなにも大切に想われ、愛される日が来るなんて、思ってもみなかった。
それがこんなにも幸せなことだなんて、思ってもみなかった――
しとしとと雨が降る。
降り続ける。
静かでひそやかな雨音を聞きながら、梔子はつかの間の眠りに落ちていった。




