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五.Ma chérie ―13


……それから梔子は、紅月にこれまでのことを伝えた。


七年前、家族で汽車に乗った時に事故に遭い、両親を亡くしたこと。


その時の衝撃が強かったせいで、一時的に両親やそれまでのことに関わるすべての記憶を失ったこと。


「一時的に……というのは?」

「両親のことは、少しずつですけど、思い出していったんです。全部ではないですけど……」


特に、事故に遭った時の記憶がよみがえった日のことは、今も忘れられない。


――口無し、お前の親はねぇ、死んだの! 疫病神のお前のせいでね!


あの日ほど絶望に陥れられた日は、他にない。


大好きだった両親を思い出し、そして二人がもうこの世にいないことを思い知らされた。

梔子を愛してくれる人など誰もおらず、たった一人きりになってしまったのだと。

そして、つらい日々の中で心の拠り所にしていた絵も、鞠花によって引き裂かれた――


「……っ」


あの日のことは、思い出すだけで動悸(どうき)がして、頭が真っ白になる。

よろめきかけた梔子を、紅月がとっさに支えてくれた。


「梔子――」

「……だい……じょうぶ、です。ごめんなさい……」


すると、紅月が何かに気づいたように息を呑む。

梔子の身体を支えたまま、彼は梔子の額に手を当ててきた。


「……熱がある」

「え……?」

「貴女はもしかして……具合が悪いのを、ずっと我慢していたのかい?」


そんなことはない。

そう言いたかった。


だって昼間まではなんともなかった。

ただ、紅月と過ごしているのが、楽しくて。幸せすぎて。


だから、少し身体が怠かったことにも、頭や喉が痛み始めていたことにも、紅月に指摘される今の今まで、梔子はまったく気づくことができなかったのだ。


「……けほっ……」

「帰るよ、梔子。帰ってすぐに休まなければ」

「…………」


熱があると自覚した途端、身体の不調は一気に襲いかかってきた。


咳が出て、頭がくらくらする。

ただ立っているのもつらく、どこかに腰掛けたくなる。


膝の裏に手を回されたかと思うと、梔子の身体は一気に浮き上がった。


「あ……、こ……紅月さま……」


紅月は梔子を横抱きにして、来た道を戻り始める。


梔子は慌てて声を上げた。

弱々しくて、今にも消え入りそうな声だった。


「あの……大丈夫、です……。自分で、歩けます……」

「だめだ。貴女の言う大丈夫は、あまりに信用ならないんだ。貴女はいつも、無理をしすぎる」


けれどぐったりとした梔子の様子に、当然のこと、紅月は頑として譲ろうとはしなかった。

むしろいっそう、梔子をもう離さないとでもいうように、抱く腕に力を込めてくる。


熱が上がってきたのだろうか。

だんだん意識が朦朧(もうろう)としてきた。


抱きかかえられたまま見上げると、暗闇の向こうに見えたのは真剣な表情を浮かべた紅月の面差しだ。


一刻も早く梔子を休ませたいと思ってくれているのだろう。

ところどころ木の根の張り出した悪路を、彼は肩で息をしながらも急いで歩き進んでいく。


梔子を抱えているせいで両腕が塞がっているから、来た時のようにランタンの明かりは灯せない。

紅月はわずかな星灯りだけを頼りに、苦労しながら来た道を引き返してくれている。


そんな紅月を見ているうちに、目の縁をじわりと濡らしたのは涙だった。


今が夜でよかったと、ぼうっとしてきた頭で梔子は思う。

声を押し殺してさえいれば、涙を見られずにすむ。

これ以上はもう、彼に心配も迷惑もかけたくはなかったのだ。


(こんなに優しい人に、私は……)


熱を帯び始めた頬を、ついに涙が伝っていく。

気づかれたくないと思っていたのに、まもなく頭上からかけられたのは、深い憂いの滲んだ紅月の声だった。


「……どうして、泣いているのかな?」

「……っ、ごめん……なさい……」


それしか、言えなかった。

泣いていることに気づかれた途端、涙は一気に溢れて、自分の意思では止められなくなってしまった。


「……梔子」

「紅月さまの、こと……思い、出せなくて……ごめんなさい」


なぜ、思い出せないのだろう。

なぜ、もっと早く気づけなかったのだろうと、自分を責めずにはいられない。


冷え切った手でペンダントを握りしめる。


遠い過去。

かつて梔子が大切にしていたあの絵を描いてくれたのは、きっと。


(ずっと前から、私は……)


梔子は愛されていた。

もうずっと昔から、紅月は梔子を愛してくれていたのだ。

それなのに梔子は、そんな彼のことを何一つ思い出すことができない――


「いいんだよ、梔子」


やがて紅月から返ってきたのは、そんな、胸が苦しくなるほどに優しい言葉だった。


「何も思い出す必要なんかないんだ。貴女が謝ることなんて――」

「……っ、私は、嫌です……!」


思いがけず(ほとばし)り出た声の大きさに、自分自身でも驚くほどだった。

それでも、熱のせいか、いつものように感情を抑えることができない。


「悲しい、ですから」


震える声で、梔子は言った。


「私、だったら……、紅月さまに、忘れられてしまったら……とても悲しくて、寂しく、て……。だから、あなたの、こと……早く、思い出したいのに――」


梔子の言葉は最後まで続くことはなかった。

いつの間にか、紅月は歩くのをやめて、立ち止まっていて。


「―――……」


降り注ぐ星灯りの下で。

紅月は目を閉じ、梔子の唇にそっと口づけていた。


ゆっくりと、静かに。

今や泣くことも忘れた梔子から、彼の唇が離れていく。


「……もう、黙って」


この上もないほどにかすかで、優しく、切ない声が、宵闇を震わせた。


「私はね、梔子。今日も、そして明日も、貴女とともにいられることが嬉しいんだ。貴女が過去のことを覚えていなくても、そんなことは少しも問題じゃない。ただ……一つだけ、知っておいてほしいことはある」


そう言って、紅月は微笑んだ。


「貴女がいなければ、私はもうとっくに、誰にも知られずに死んでいた。何もかも喪って壊れていた私を、貴女が救い上げてくれたんだ。それだけは、どうか……覚えていて」




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