一.口無しと梔子 ―3
――過去の記憶をとりとめもなく思い返しているうち、いつしかくちなしは、無意識のうちに胸元に手を触れていた。
心がひどく弱って痛む時、くちなしは胸元に手を伸ばしてペンダントにそっと触れる。
それは両親を喪ってからというもの、くちなしの身体に染みついていた癖だった。
しかしもはやその場所に、心の拠り所となるペンダントはない。
「……っ」
あまりの喪失感に、鼻の奥がつんと鋭い熱を持つ。
俯き、胸を両手で強く押さえて、くちなしは涙が零れそうになるのを必死に堪えた。
(泣いてはだめ。これから、紅月さまと顔を合わせなくてはならないのだから。ここで泣き腫らして、あの方の興を削ぐようなことがあってはいけない……)
馬車に乗ってから、すでにずいぶんと時間が経っていた。
くちなしを乗せた馬車は、もうじきに紅月の屋敷の近くまでたどり着くはずだ。
抑えきれずにひとしずくの涙が青ざめた頬を伝ったのと、馬車の揺れが止まり、外から馬のいななきが聞こえてきたのは、ほぼ同時のことだった。
無造作に扉が開かれると、御者が苛立った声を投げかけてくる。
「やれやれ、やっと着いた。さっさと降りろよ、この山姥が。まったく、何が悲しくて、こんな疫病神の送り届け役なんか俺がやらなきゃならないんだっての」
「……申し訳ありません。すぐに、降りますから」
ごくわずかな荷物を腕に抱えると、熱をはらんで潤んだ目を御者に見咎められぬよう、できる限り顔を伏せて馬車を降りる。
馬車はこれでせいせいしたとばかりに、足取りも軽くもと来た路を去っていった。
馬車から降りたくちなしは、ひとまず周囲を見渡してみることにした。
(ここは、確か……)
むろん、屋敷からほとんど外に出たことのないくちなしにとっては、見知らぬ場所だ。
懐中から手書きの地図を取り出すと、今いる場所を確かめる。
付近の建物を目印に進んでいくと、やがて差し掛かったのは、両脇に紫陽花の咲き並んだ路だった。
今朝はあたりが明るくなる頃まで雨が降っていたためか、紫陽花は透き通った露に濡れ、きらきらと日の光を帯びている。
地図によれば、今歩いている路の先に、篁家の屋敷があるとのことだけれど……
(あれは……)
ふいに、前方に車が停まっているのが目に入り、くちなしは足を止めた。
車の近く。
紫陽花のそばに膝をついていた人物に、思わずくちなしの目が吸い寄せられる。
黒鳶色の羽織と長着。
臙脂色の組紐でゆるく一つにまとめ、背に流した艶やかな漆黒の髪。
紫陽花とともにあるその姿は、まるで一幅の絵画を見ているかのように美しかった。
くちなしはつかの間、瞬きをするのすら忘れてしまう。
(紅月さま)
あれほどの麗人を見まごうはずがない。
彼はまぎれもなく、くちなしの婚約者となった、篁紅月その人に違いなかった。
紅月がくちなしの存在に気づく様子はなかった。
それどころか、やがて彼は車の扉を静かに開けると、渦巻き型の金具で綴じられた大きな帳面を持ってきて、再び紫陽花の隣に座り込んでしまう。
それから紅月は脇目も振らず、一心に鉛筆を動かして、帳面に何かを描き続けていた。
その姿は、何人たりとも彼の妨げになってはならないと思わせるような、厳かな信念に満ち満ちていて……
声をかけることは、ためらわれた。
今、声をかければ、どう考えても紅月の妨げになってしまう。
だが、それだけではない。
(……綺麗)
ただ、目が離せなかったのだ。
紫陽花を見つめる、あまりにもまっすぐなその眼差しに。
淀みなくさらさらと帳面に絵を描いていく、流れるような手の動きに――
ふいに、紫陽花をそよがせながら風が吹いた。
「あっ」
思わず小さく声を上げてしまう。
風を受けて白い花びらのような何かが、紅月のそばで咲いていた紫陽花からふわりと舞い上がったからだ。
花びらのように見えたのは、よくよく見れば、小さな白い蝶だった。
蝶は紫陽花の上をくるりと回るように飛ぶと、くちなしの方へと飛んでくる。
その蝶を目で追っているうちに、
「貴女は……」
聞き知った、深くなめらかな声が響いた。
白い蝶はくちなしの前を通り過ぎ、どこかへと飛び去っていく。
紅月はすでに手を止め、顔を上げていた。
視線が重なり合う。
彼はしばらくの間、両の瞳を瞠って驚きを示していたけれど、まもなくゆったりと微笑んで言った。
「なんだ、もうここまで来ていたのかい。それならば、早く私に声をかけてくれればよかったものを。貴女はなぜ、そんなところに立ち尽くしていたのかな?」
「……!」
頬に朱が昇る。
言葉が、詰まる。
まさか、くちなしがじっと立っていたのは、紅月が絵を描く姿に見惚れてしまっていたからだとは、言えるはずもない。
幸い、彼は特にそれ以上追及してくることはなく、くちなしに近づいてきて言った。
「貴女が来るのを待ち切れなくてね。こうして途中まで来てしまった。とはいえ、いささか待ちくたびれて、暇つぶしをしてしまっていたのだが」
「そ、そうだったのですか……? 申し訳ありません。その……お待たせしてしまって」
こんなところで、紅月を待たせてしまっていた。
非難されているのだと思ってとっさに謝罪したけれど、彼は不思議そうに目を瞬いて尋ねてくる。
「貴女はなぜ今、謝ったのかな。……ああ、もしや、私が待ちくたびれていたと言ったせいかい?」
「…………」
おもむろに頷けば、紅月は声を立てて笑った。
予想もしなかった反応に、くちなしは思わずたじろいでしまう。
「いや、失礼。おかしな人だね。ここで貴女を待っていたのは私の一存。貴女は何一つ悪くないだろうに。それに、ここで貴女を待っていたおかげで収穫もあった。ほら、これをごらん」
そう言って、紅月がくちなしに見せてきたのは、彼がつい先ほどまで鉛筆を走らせていた帳面だった。
白い頁に描かれているのは、紫陽花と、花びらにとまって翅を休めている蝶の姿。
言葉も忘れて見入ってしまう。
使われているのは、確かに黒鉛筆一本だけだ。
なのにそこに描かれている紫陽花も蝶も、瑞々しく色づいているように錯覚させられる。
「私は今日、こんなにも心惹かれる風景に出会うことができたんだ。貴女のおかげでね。――さて、ではそろそろ行こうか」
帳面を閉じると、紅月はくちなしに手を差し出してきた。
すらりとした、美しい手だ。
――ここで彼の手を取らなければ、失礼にあたる。
意を決して自分の手を重ねたけれど、その瞬間、込み上げてきたのは羞恥心だった。
血色の悪い、赤黒くて傷だらけの手。
くちなしの手は、紅月の手と比べてあまりに醜く、不釣り合いすぎる。
(紅月さまは……私を、どう思っていらっしゃるんだろう)
手だけではない。
この真昼の光の下で、紅月は今度こそ、くちなしの醜い姿をはっきりと見たはずだった。
この縁談はなかったことにしよう、と。
彼がそう言い出しても、何ら不思議はないはずなのに。
にもかかわらず、紅月はまだ、くちなしを己の婚約者として迎えようとしている。
……紅月がいったい何を考えているのか、まったくもってわからない。
それでも、もはや帰るところのなくなったくちなしには、彼についていくしか選べる道がない。
ただ一つ、くちなしにできることは――
(どうなってもいいようにだけ、しておけばいいのよ。……私はいつ捨てられたって、おかしくないのだから)
捨てられて傷つきたくないのなら、紅月が本当に歓迎してくれているのだとは、考えない方がいい。
すると、くちなしの骸骨のような手を、紅月の手がそっと握ってくる。
思わず見上げれば、彼は穏やかに微笑んでいた。
あでやかに咲く花のような麗しい笑みだ。
その微笑みを見た瞬間、罪深い思いが胸の底をじわじわと侵食していく。
(この方はきっと、すぐに私に幻滅することになる)
くちなしは美しくも賢くもなければ、他に何の取り柄もない、紅月にはあまりにもふさわしくない娘だ。
どう考えても、醜いばかりか、まともに話すことすらできないくちなしなどが、彼と釣り合うわけがない。
(……ごめんなさい、紅月さま)
心の中で謝りながら、くちなしは車へと乗り込んだ。




