五.Ma chérie ―12
それにしても、こんなにはっきりと天の川を見たのはおそらく、初めてだ。
ふいに脳裏によぎるのは、過去の記憶。
――梔子、今日は残念だったわね。雨が降ってしまって……
――天の川は見られなかったが、大丈夫。お前の願いはちゃんと空に届いたはずさ。
そうだ、と思い返す。
幼い頃の梔子は、両親とともに七夕を楽しんでいた。
けれど今の暦でいう七夕は、ちょうど梅雨の時期と重なってしまう。
雨や曇りになってしまうことが多くて、ちゃんと天の川が見られたことは一度もなかったのだ。
「私……天の川をこんなに綺麗に見たのは、初めてです」
「そうか。別に七夕でなくとも天の川は見られるが、最近では街中だと街灯がついていて、少し星が見えづらくなってしまったからね。見ようと思って暗い場所に行かないと、確かに綺麗には見られないものかもしれない」
本当に、言葉が出ないくらいに綺麗だ。
いつまでもこうして眺めていたくなる。
こんなにも美しい光景を見せてくれた紅月には感謝しかない。
やがて、紅月がため息をつきながら言った。
「私としたことがうっかりしていたよ。短冊を持ってくればよかった。いつもは持ってきていたんだが」
「いつも……というと、何度もこちらにはいらっしゃっているのですね」
「ああ。ここらは古くから篁の土地だからね。昔はよく、兄上とともに来ていたものだ。この場所からの眺めがいいのは、兄上が教えてくれたことだから……」
(紅月さまの、お兄さま……?)
梔子ははっとして隣に立つ紅月を見上げた。
梔子が紅月とともに暮らすようになってから、もうひと月もの時が経っている。
それなのに、彼の口から身内に関わる話を聞いたのは、今が初めてだったからだ。
そう――それは、なかなか聞けずにいたけれど、本当はずっと、梔子が気になっていたことだった。
紅月の屋敷には他に住んでいる人はいないし、彼の他に誰かが寝起きしていたような形跡もない。
そして紅月は、親兄弟のことを決して口にしようとしなかった。
ならば、彼のかつての家族は今、いったいどうしているのか。
訊いてよいものかどうか、迷った。
それでもこの話は安易に聞き流してよいものとは思えなくて、梔子は一つ呼吸を置いて、紅月に尋ねる。
「紅月さまには……ご兄弟がいらっしゃったのですか?」
「いないよ」
夜空を見上げる紅月から返ってきたのは、そんな言葉だった。
星明かりにうっすらと照らされた面差しからは、どんな感情も読み取れない。
彼はただ、遥かな天の川を見上げるばかりだった。
「今はもういない。遠い昔に、いなくなってしまった」
「…………」
もう何も、訊くことはできなかった。
どこか悲しげに微笑む彼の横顔が、訊くなと梔子に告げているように見えたからだ。
「紅月さま……」
尋ねることはできない。
けれど、気にかかって仕方がない。
(紅月さまに……紅月さまのご家族に、いったい何があったの……?)
紅月にはそれ以上、家族の話を長引かせるつもりはないらしかった。
彼はその場の空気を変えようとするかのように尋ねてくる。
「短冊はないが、これだけ見事な天の川なんだ。空に向かって願い事をするだけでも、もしかしたら叶うかもしれない。梔子は何か、願い事はあるかな」
「私は……」
梔子の、願い事。
そう問われて思いついたのは、とある一つの願い事だった。
もし何か一つ、願いを叶えてもらえるのだとしたら、今はそれしか考えられない。
胸元のペンダントに手を触れる。
小さく息を吸って、梔子は言った。
「もし、一つだけ……願いが叶うのでしたら」
「ああ」
「私は……紅月さま、あなたのことを思い出したい」
「…………!」
紅月は血相を変え、梔子に向き直った。
彼のその反応に、近頃、梔子の中でずっと膨らみ続けていた疑問は、一気に確信へと変わっていく。
やはり、そうなのだ。
梔子が紅月と初めて出会ったのは、この夏ではない。
(私はもうずっと前に、紅月さまに出会っている――)
言葉を失っているらしい紅月に、梔子は続けて言った。
今、言わなければならないと思ったのだ。
「紅月さま。……私には、昔の記憶がありません。八條のお屋敷に引き取られる以前のことを、私はほとんど忘れてしまっているのです」




