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五.Ma chérie ―9


……そして。


それは、その日の昼下がり。

帝都の街中での出来事だった。


通りの両側には瀟洒(しょうしゃ)な風貌をした店が立ち並び、路面電車や車が走る帝都の中心街は、いつも大勢の人々で賑わっている。


そんな中、突然、どこからかどよめきが沸き起こった。


「どうしたのかねえ、いったい」

「騒がしいな。何か(もよお)し物かね? 吾輩(わがはい)は急いでいるんだが……」

「あなたも見た? あっちよ、早くしないと行っちゃう。ものすごい美男美女なの……!」


次第に人だかりができてくる。

(ささや)き合う人々の向こうでは――




「……紅月さま、あの」

「どうしたのかな? 梔子」

「あの……。あの、私達……」


梔子と紅月は今、ミルクホールに来ていた。


梔子が履いているのは、いつもの草履(ぞうり)ではなく、西洋風の革靴だ。

靴底も、草履よりずいぶんと厚い。

慣れない靴で歩き続けて疲れただろうと、紅月が梔子を気遣って休憩に立ち寄らせてくれたのだ。


ミルクホール。

牛乳と一緒に、お洒落な洋食やお菓子を出してくれる店だと話には聞いたことがあった。

けれどもちろん、これまでずっと使用人以下の扱いを受けて虐げられてきた梔子は、店に入ったことなどない。


紅月の注文を受けて運ばれてきたお菓子はシベリアといって、羊羹(ようかん)をカステラで挟み込んだものらしい。


(……私達、さっきから目立ちすぎているわ)


梔子がどぎまぎする一方で、紅月は特に周囲を気にした様子もなかった。

飲み物をすすりながら、優雅にシベリアを食べている。


「――梔子。梔子、ちょっといいかな。こっちを向いて」

「は、はいっ! あっ……」


慌てて返事をして顔を上げた途端、紅月が梔子の方へ指先を伸ばしてくるのが視界に入った。


驚く間もなく、彼の指先が梔子の口元をそっと拭う。


「…………!」

「カステラの欠片がついていた。おいしいかい、梔子」


不意打ちだ、こんなの。

瞬く間に頬を真っ赤にした梔子に、紅月が笑いを零す。


「あり、がと……ございます……。あの、おいしい……おいしい、です、けど……」


恥ずかしすぎて顔も上げられない。

途切れ途切れに答えるのがやっとだった。

梔子はそんな状態だったから、まわりの声にも気づけない。


「――おい、見ろよ。なんだあの子……」

「か、可愛い……。可愛すぎるだろ。見たことない髪色だけど、この帝都にあんなとんでもない美人がいたのか……」

「でも、あの子の横にいるのってさ、もしかしなくても……」


遠目から梔子に熱烈な視線を向け、そう囁き合うのは学生達だ。


ここには、普段から学生達が、雑談をしたり新聞や雑誌を読んだりするために多く集まってくるらしい。


梔子のことが気になりながらも誰も近づいては来ないのは、梔子の隣にいるのがあの篁紅月だからだ。

好意をもって梔子に話しかけたくとも、誰も紅月にかなうはずもない。

そんなわけで、視線だけが梔子と紅月のいるテーブルの方へと集まっていたのだった。


梔子が視線を気にして落ち着けていないことを紅月は見抜いていたらしい。

彼は梔子を安心させるように言ってくる。


「大丈夫だよ、梔子。貴女に冷たい視線を向ける人なんていない。むしろ、貴女に見とれているくらいだ」


今まで散々、口無しだの山姥だのと、忌み嫌われてきた梔子だ。

そんな梔子に今は皆が見とれているだなんて、とても信じられないことだった。

けれど、紅月が言っていることは、どうやら真実であるらしい。


「だから何も心配なんていらない。それに、何かあったとしても私がいる」

「…………」


紅月にそう言われて、少しだけ心が落ち着いた。

改めて、シベリアをひと口。

優しく、しっとりとした甘さが口の中いっぱいに広がった。


「おいしい……」


思わずそう呟くと、紅月は嬉しそうに微笑んだ。


「よかった。貴女はやっぱり、甘いものを食べている時に本当に幸せそうな顔をするね」

「え……。そう、でしょうか……?」

「ああ。見ているだけでこちらまで心が(なご)むんだ。なんでも食べさせてあげたくなってしまう」

「ありがとう、ございます。でも……甘いものは食べすぎると太ってしまうと、リリアーヌさんが言っていたので……」

「いいんだよ、梔子は。貴女はそもそも、いささか痩せすぎているからね。太ったところで何の問題もない」


そう話しながら、紅月がすすっているのは冷えた牛乳ではなく、湯気の立ち上る濃茶色の飲み物だ。

まわりをちらと見れば、他の人も彼と同じものを飲んでいるらしい。

ふんわりと(こう)ばしい香りに、つい興味をそそられてしまう。


「珈琲が気になるのかい?」

「え!? あ……」


無意識のうちに、紅月の手元にあったカップに見入ってしまっていたのだろう。


紅月に尋ねられて、思わずどきっとする。

少し迷ったけれど、梔子はこくりと頷いた。


「その飲み物は、珈琲……って、いうんですか?」

「そうだよ。私は何も入れずに飲むのが好きだが、砂糖や牛乳を入れてもまろやかでおいしい。梔子の分も頼んでみようか」

「え……、でも、そんな……」


悪いです、と遠慮しようとした梔子の言葉は、すかさず(さえぎ)られてしまった。


「梔子。今日は遠慮は一切なしだ。さっきも言っただろう?」

「う……」


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