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五.Ma chérie ―5


……そして、それからしばらく経った頃。


「梔子、あの服はどうだろう? 裾の紫陽花(あじさい)が見事だ。色合いも貴女によく合っていると思う。……ああ、向こうに飾ってある服も綺麗だね。夏の海と同じ色をしている」

「はい。すごく……綺麗です」

「ふふ。わたしのおすすめはこれかしら。自信作なのよ。この国の着物と仏蘭西のドレスの形をいいとこ取りしてみたの。帯の真珠の飾りも可愛いでしょう?」


紅月とリリアーヌの二人と一緒に、梔子は改めて、部屋の中に並んだ服を眺め歩いていた。


――梔子。どうか、綺麗な服が自分にはふさわしくないなんて、そんな悲しいことは思わないで。わたしと一緒に選びましょう?


そんなふうに、リリアーヌが言ってくれたからだ。


ちなみに、「紅月が隣にいてくれた方が、きっと梔子も安心できると思うの」とリリアーヌが持ちかけたために、彼も梔子が自分の服を選ぶのを手伝ってくれている。


(本当は、やっぱり、私にリリアーヌさんの服はもったいないと思ってしまうけれど……)


もう何年も、()()ぎだらけのぼろのお仕着せを着続けてきたのだ。

紅月が贈ってくれた着物を着る時だって、どこか後ろめたいような気持ちになることは何度もあった。


こんな美しい服を自分なんかが着ていいのだろうか。

縫い跡としみだらけのぼろ服が、梔子には一番ふさわしいのではないかと、どうしてもそう思ってしまう。


それでも、もし、たった一度だけでも許されるのなら――


(あれは……)


ふいに視界に飛び込んできたのは、目の覚めるようにあざやかな青色だった。

はっとして振り返れば、そこにあったのは雪のように白い服だ。


リリアーヌが今着ている服のように、着物とドレスを合わせたような、今までに見たことがない形の服だった。

裾や(たもと)には、透明感のある繊細な飾りが幾重にもあしらわれている。


そしてとりわけ目を引くのは、青緑色にきらめく不思議な装飾。


思わず近づいて見てみると、布地に描かれた花の文様の花弁や葉の部分に、ひときわきらきらと輝く部分があった。

光の当たる角度によって、その色は青を基調とした七色に変化する。


「これは……螺鈿(らでん)かな」


梔子の視線の先をたどった紅月がそう言うと、リリアーヌが嬉しそうな声を上げた。


「あら、その服に目をつけるなんて、梔子、あなたって本当に見る目があるわね! それはわたしがまだ巴里(パリ)にいた頃に仕立てた服で、ここにあるたくさんの服の中でも一番手の込んだ品なのよ。仕立てるのに何か月もかかっているし、もちろんお値段も……」

「えぇっ……!?」


こそっとした声色で告げられたその値段に、梔子は卒倒しそうになった。

一方で紅月は納得したように頷いている。


「まあ、そのくらいはかかるだろうね。しかしこれだけの品はめったにお目にかかれるものではないだろう。もっと値を吊り上げたとしても買い手はついたのではないかな」

「もちろん今までに何人もこの服を買いたいと言ってきた人はいたわ。でもね、服にも命があって、心があるの。手間暇をかけて作った服ならなおさらね。この服は、例えるなら女王さまかしら。着る人を選ぶのよ。自分にふさわしい人が現れるのを、ここでずっと待っていたの」

「なるほど。思い出してみると、あなたは巴里にいた頃も同じようなことを言っていたね。服の持つ声を大切にしたい、と……」


そう言えば、と梔子は思う。

リリアーヌについて、静貴が言っていた言葉。


――ただ、まあ……彼女もかなりの変わり者だ。話し方はふわふわしているし、性格は猫のように気まぐれ。彼女の気に入った人間相手にしか服を売らないし、作らないことで有名なのさ。


リリアーヌが不思議な力を持っていて、服の声を大切にしているというなら、静貴の言っていたことは本当なのだとよくわかる。


いくら買いたいと願う客がいても、服が嫌だというのなら、いくらお金を積まれたとしてもその客には売らないということなのだろう。


……正直なところ。


見入ってしまった。

螺鈿を散りばめ、雪のように儚げで美しいその服に。


リリアーヌの服はどれもが見事だけれど、その服だけは別格で、今では他に視線を移すことすら難しいくらいだった。


けれど梔子は必死にその服から目をそらした。

首を横に振り、慌ててリリアーヌに言う。


「あ、あの、いいんです。別な服を……」

「あら、どうして? あなたはその服が気に入ったんでしょう? ああ、お値段のことなら気にしなくていいのよ。お金を出してくれるのは静貴だし、それに紅月だって売れっ子で、お金なんか(うな)るほど持っているんだから」

「それは……その。私は……こんな素敵な服に、気に入ってもらえるわけがありませんから」


例えるならこの服は女王さまだと、リリアーヌは言っていたのだ。


気品に溢れ、ずっと運命の相手を待ち続けていたのだという服が、よりにもよって梔子を――ついひと月前まで、ぼろぼろの汚い服を着ていた娘などを選ぶわけがない。


そう、思っていたのに。


「ねえ、梔子。それなら、この服に触ってみて」

「え……? で、でも」

「いいから。ね?」


なぜかリリアーヌがそんなことを言い出して、梔子はためらう。

けれど紅月にも「彼女の言う通りにしてみればいい」と(うなが)されれば、もうその服を無視し続けることはできなくて。


(触る、だけなら……)


恐る恐る、そっと手を伸ばす。

やがて指先がその服に触れた途端、


「あ……」


一瞬、何が起こったのかわからなかった。

そんなことが現実にあるわけがないと思う。

それなのに梔子の目には、その服がほのかに白い光を帯びて、静かに螺鈿をきらめかせたように見えたのだ。


「どう……して」

「梔子。あなたは選ばれたのよ。この服は、他の誰でもない、あなたに着てもらいたがっている」

(嘘……)


ただただ息を呑んで、梔子はその服に目を奪われる。


(私を、選んでくれたの……?)


呆然としていると、リリアーヌが再び尋ねてきた。


「梔子。もう一度、あなたに訊くわ。あなたはどうしたい?」

「…………」


抗うことはできなかった。

それでもなかなか答えられずにいると、そっと、紅月の手が梔子の背を支えてくれる。


「……、です」


掠れて吐息混じりになってしまった言葉を、今度ははっきりと声にする。


「この服を……着て、みたいです」

「ええ。わたしも、あなたに着てもらえるならとても嬉しい。それじゃ、さっそく着てみましょうね」


リリアーヌが、心の底から喜んでいることがわかる明るい声で言う。


……できたのだ。

梔子は今、自分の本当の思いを心の中で押し殺さずに、言葉にすることができた。


それは、他の人にとっては当たり前にできる、ほんのささいなことだったかもしれない。

それでも。

長い間、何かを願うことすら許されなかった梔子にとっては、それはとても大きな一歩だった。


「……あ……」

「梔子……?」

「ご、ごめんなさい。……私、また……っ」


リリアーヌが心配そうに視線を向けてくるが、それでも止められなかった。

また、涙腺が緩んでしまう。


深い、深い安堵が梔子を襲っていた。

再び溢れ出してしまった涙は止まらず、梔子はその場にへたり込んで泣き崩れた。



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