五.Ma chérie ―3
「あの……紅月さま。リリィさんのこと、なのですけれど」
「リリアーヌのこと?」
「はい。リリィ……リリアーヌさんは、茶々丸の言うことがわかる……のでしょうか」
どうやらリリィは愛称で、リリアーヌというのが彼女の名らしい。
梔子の目に、リリアーヌと茶々丸は難なく意思疎通をしているように見えた。
リリアーヌは犬と会話ができるというのだろうか。
梔子の疑問に、紅月は特に驚いた様子もなく答えてくれる。
「ああ、そのことか。リリアーヌは昔から不思議な力を持っていたそうなんだ」
「不思議な力……ですか?」
「なんでも、動物とか、花とか、普通は会話などできない生き物の言っていることがなんとなくわかるそうだよ。あとは、その相手によるらしいが、目を合わせた者の過去や考えていることが伝わってくることがあるらしい」
「え……?」
そう聞かされると、思い出されたのは先ほどのリリアーヌの言葉だ。
――心配しなくていいのよ。紅月の“Ma chérie”は世界でたった一人だけ。あなただけだもの。
あれは本当に、梔子の抱いていた不安を理解していたかのような言葉だった。
梔子はリリアーヌに対して、何も言っていなかったにも関わらず。
(もしかしたら、リリアーヌさんは私の過去も……)
そう考えかけて、梔子は目を瞬いた。
頭の片隅に引っかかっていたのだ。
リリアーヌの言葉で気になっていたのは、それだけではなかったことに。
彼女は、確かにこうも言っていた。
――紅月はもうずっと昔から梔子のことが大好きなのではないの?
(どういうこと……?)
どくん、と心臓が重く鼓動を打つ。
梔子が紅月と初めて出会ったのは、確かにあの八條家での夜会の日――ひと月前のはずだ。
あの夜よりも前は、梔子にとって紅月は、雲の上にいるような、自分とは無縁の人だと思っていた。
紅月の名を聞くことはあっても、言葉を交わしたことはおろか、顔を合わせたことすらなかったのだ。
それなのに、リリアーヌの言葉はどうだったか。
まるで、紅月はずっと以前から梔子のことを知っていたとでも言わんばかりではなかったか――
(……紅月さま。あなたは、いったい……)
梔子の少し前を歩く紅月の背を見つめる。
我知らず、梔子は胸元のペンダントをぎゅっと握りしめていた。
*
「もしかして、今日は休みの日だったのかい? 私達は客としてここに来てしまったが……」
リリアーヌの他には誰もいない店内を見渡して、紅月が尋ねた。
梔子はというと、リリアーヌが用意してくれた温かな花茶に口をつけながら、ただただ呆気にとられるばかりだ。
まるでお伽噺の中の世界に迷い込んでしまったかのよう。
それは庭だけではなく、店の中も同じだった。
レースのカーテン越しに柔らかな日差しの注ぐ店内は、淡い色合いのお洒落な調度が並んでいる。
花や動物の彫刻がなされた愛らしい椅子やテーブルの上に置かれているのは、華やかな和柄の花瓶だ。
そこには、おそらく庭で摘んだのだろう、夏の花々が飾られていた。
店の内装を見ただけで、リリアーヌの美的感覚の凄さが伝わってくるほどだ。
紅月といい、静貴といい、リリアーヌといい。
(私……今、もしかしなくても、凄い人ばかりに囲まれているのでは……?)
今さらながらに、居たたまれなくなってくる。
何の取り柄もない自分が、こんなところにいさせてもらっていいのだろうか。
赤や桃色の花々が描かれ、金の縁取りがされたティーカップにそっと触れながら、梔子は無意識のうちに俯き加減で、紅月とリリアーヌの会話を聞いていた。
紅月の問いにリリアーヌは頷き、菊の花びらを浮かべた茶を自身も口に含みながら答える。
「そうよ。だから今日は、わたし以外にここには誰もいないわ。でも、あなた達は特別。わたしの大切なお友達なのだもの。それで、ここには静貴に勧められて来たのでしょう?」
「本当に貴女にはいつもお見通しだね。私はまだ何も言っていなかったはずなんだが」
そう言って、紅月は静貴から受け取っていた依頼状をリリアーヌに渡した。
リリアーヌは茶目っ気たっぷりに微笑んで言う。
「ふふ、すごいでしょ? ……って言いたいところだけど、今回はついさっき、静貴に電話をもらっていたからなの。あなた達二人が、そのうちわたしのところに来るはずだからって」
依頼状を開いてさっと目を通すと、リリアーヌは梔子に視線を向けてきた。
今さらながらに、彼女の目に自分の姿がどんなふうに映っているのか、気になって仕方なくなった。
確かに、梔子はこのひと月で、八條家にいた頃よりはだいぶましな容姿になったと思う。
けれど。
(ずっと……醜いと言われてきたんだもの)
自信なくリリアーヌを見つめ返すと、彼女はふわりと笑って梔子に話しかけてくる。
「梔子のための服ね。ねえ梔子。あなたはどういう服が好き?」
「え……?」
思いがけない質問に、梔子は戸惑う。
なかなか答えられないでいる梔子に、リリアーヌは言葉をつけ足した。
「だって、梔子には、こんな服が着たいっていうものを着てほしいから。わたし、今までいろんな人を見てきたけれど……やっぱり、自分が本当に好きだって思うものを着た時に、みんな一番輝くものだと思うの」
「そう……なのですか?」
「ええ」
すると、リリアーヌは今度は紅月に向かって言った。
「紅月。少しだけ、梔子を借りてもいい? それとも、紅月がこの子に服を選んであげる?」
「いいや。私より、きっとあなたの方が梔子に合うものを選んであげられると思うからね。私はここで待っているよ。行っておいで、梔子」
「…………」
優しく微笑んで、紅月が言う。
梔子に向けられる、その視線で、微笑みで。
大丈夫だよ、と。
彼にそう、言われた気がした。
「……はい」
どうにかこくりと頷く。
紅月は笑みを深め、頷き返してくれた。
*
「ねえ、梔子。わたし、あなたにお願いがあるのだけど」
リリアーヌからそう切り出されたのは、店の階段を昇っている途中のことだった。
リリアーヌの店はニ階建てで、一階に作業場と応接間、二階に完成した服を置いてある部屋があるらしい。
「わたしのことは、リリィか、紅月みたいにリリアーヌって呼んでほしいわ」
「……!? 呼び捨て、ですか?」
一瞬、言われていることの意味がわからなかった。
ただただどうしたらよいかわからずに口をぱくぱくさせていると、リリアーヌが言う。
「わたしと紅月はもうずっと前から友達だもの。それならもちろん、紅月の大切な人……あなただってわたしの友達でしょう? だから、呼び捨て。あと、できたら敬語も使わないでほしいわ。だめ?」
「でも……」
「それとも、わたしと友達になるのが嫌?」
「……そ、そんなこと、あるわけないです!」
寂しそうな顔になったリリアーヌに、梔子は慌てて首を横に振る。
……友達。
胸の中に、その響きが温かく広がる。
リリアーヌは、梔子を友達だと言ってくれた。
(私と、友達だなんて……)
そんなことを言ってくれたのは、リリアーヌが初めてだ。
本当は、すごく嬉しい。
……でも。
「……私では、だめです」
それは、言うつもりのなかった言葉だった。
ついそんな言葉を漏らしてしまったのは、八條家にいた間、鞠花から投げつけられてきた罵言を思い出してしまったからだ。
――ああ嫌だ。お前が近くにいるだけで気が滅入ってくるのよねえ。
――口無しなんだもの。本当にお前に口がなかったらよかったのに。だってお前と話したい人なんて、誰もいるはずないものね。お前に口なんか、必要ないでしょ?
自分でもそう思う。
梔子はもともと、話すことが得意ではなかった。
楽しく気の利いた話なんて、梔子には全然できない。
本当は、紅月がリリアーヌと話しているところを見ただけで、不安で苦しくて仕方なかったのだ。
(紅月さまは、リリアーヌさんと話している時の方が……)
紅月はいつも、梔子にたくさん話しかけてくれた。
梔子も、彼と話している間、ずっと心が安らいで楽しかった。
けれど今振り返ってみると、内気で大人しい梔子と接する時、紅月はいつだって、いたわるような、気遣うような、そんな話し方をしていたように思える。
明るくて茶目っ気たっぷりで、くるくると表情豊かに話すリリアーヌと、話し下手で一言発するのにも時間がかかってしまう梔子。
どちらと話していて楽しいかなんて、火を見るより明らかなことだ。




