一.口無しと梔子 ―2
*
それはもう、今となっては遠く、遠く。
本当にごくわずかなものにすぎなかったけれど。
くちなしにも、愛された記憶があった。
今は亡き両親に慈しまれ、守られた、温かく優しい記憶の欠片が。
『父さま、父さま……!』
くちなしが物心ついたばかりの頃。
その日、幼いくちなしは明るい声を上げながら、嬉しさに胸を弾ませて走っていた。
廊下を走ってはだめよ、と後ろから母が注意する声が聞こえていたけれど、もちろんくちなしの耳には届いていない。
(だって、私、もうずっと父さまに会っていなかったわ。だけど今日、やっと会えるんだもの)
父はいつも仕事で忙しく、家にいないことが多かった。
だから、今日のように会いにいくことのできる日は、とても限られていたのだ。
息せき切って走り、たどり着いたのは木製の引き戸の前。
この戸を一枚隔てた先に、父がいる。
けれど、それまでの勢いはどこへやら、くちなしは胸の前で指を組み合わせると、その場でもじもじと足踏みをした。
久しぶりの再会を前に、急に気恥ずかしくなってしまったからだ。
それでもすぐに、恥ずかしさよりも父に会いたい気持ちが勝って、頬を紅潮させたまま、指先をそうっと戸へ伸ばす。
その向こうは、穏やかな木漏れ日の差す診察室。
机に向かって書き物をしていた医者――くちなしの父、葉室智行は、引き戸の隙間から部屋を覗いている一人娘に気づくと、飛び上がるように椅子から立って破顔した。
『ああ、来てくれたのか! 僕の真っ白な、ちっちゃな天使!』
『父さま!』
両腕を広げた父のもとへ、くちなしはまっしぐらに駆け寄せていく。
勢いよく飛び込んできたくちなしの身体を、父は笑い声を立てながら抱き上げた。
『しばらく見ないうちにまた大きくなったんじゃないか? ほら、よく顔を見せなさい』
『父さま。私、母さまの言いつけを守って、ずっといい子にしてたのよ。だからね、また高い高いってしてほしいの。ほら、前に何回もやってくれたみたいに!』
『ごめんなさい、あなた。もう、この子ったら、父さまの邪魔になってはだめよって何度も言って聞かせたのに』
『まあまあ、いいじゃないか。こんなに元気なのはとてもいいことだよ』
『もう、あなたったら。あんまりこの子を甘やかさないでくださいな』
はしゃぎ立てるくちなしに、後からやってきた母、佳江は少し困ったような声で言った。
けれど、智行に抱き上げられた幼子を見つめるまなざしは、柔らかく、慈愛がこもっている……
――篁家へと向かう馬車の中。
まぶたを閉じるとよみがえってきたのは、そんな、懐かしい幼い頃の思い出だった。
(父さまと母さまに、私はあんなにも愛されていた。大切にされていた)
くちなしの父、葉室智行は優れた技術を持つ医者で、自分の病院を開いていた。
情に厚くほがらかな人柄の智行は、患者からも、彼のもとで働く看護師達からも、とてもよく慕われていた。
そんな彼が実は八條伯爵家の出であることを知る者は、ほんの一握りだったという。
智行は、幼い頃からとりわけ学問優秀な子どもだったらしい。
ゆくゆくは八條家の跡継ぎに……と、将来を期待されていたに違いない。
しかし周囲の期待とは裏腹に、成長した智行は医業を志し、八條家を出ることを望んだ。
無論、当時の八條家当主がそれを快く許すはずがない。
しかも智行が志したのは、大きな病院に勤めるような医者ではなかった。
貧しくて他では治療を受けられなかったり、行き場に困ったりしている人々をも受け入れる医者だというのだから、なおさらのことだった。
けれど智行の意志は固く、周囲の反対を押し切る形で家を飛び出した。
そうして、憤激した八條家当主はその怒りのままに智行を勘当し、その後一切、生家の敷居をまたぐことを禁じたのだという。
……それから長い月日が経ち、念願かなって医者となった智行は、まもなく佳江を妻に迎えた。
やがて二人の間に生まれたのがくちなしだ。
二人は皆から本当によく慕われていたから、そんな二人の子どもであるくちなしが不思議な髪色をしていても、それを罵ったり、悪しざまに吹聴するような人は誰一人としていなかったのだった。
……いつだったか、当時結婚の概念を知ったばかりの幼いくちなしは、母の膝の上で尋ねたことがある。
『ねえ、母さま。母さまはどうして父さまとけっこんしたの?』
いきなり尋ねられた母は、その時、一瞬だけ虚をつかれたような顔をしていた。けれどすぐにほんのりと頬を朱に染め、初々しい乙女のようにはにかんだのが、今でもくちなしの目にあざやかに焼きついていた。
くちなしの頭を優しく撫ぜながら、母は慈しみ深い声で言った。
『母さまはね、父さまのすべてを好きになったのよ。優しいところも、お医者さんの仕事を一生懸命にしているところも。もちろん、片付けが苦手なところも、ちょっと寂しがり屋なところもね。母さまは、父さまといるだけで、とっても温かい気持ちになるの。だから母さまは、父さまと結婚したのよ。この先ずっと、父さまと一緒に生きていこうって、母さまはそう決めたの』
そう話す母の顔が、あまりにも幸福に満ちあふれていたから。
だから、くちなしはつい羨ましくなって、むっと頬を膨らませて言ってしまったのだ。
『ずるいわ、母さまばかり。私も、大きくなったら父さまとけっこんしたいのに』
佳江は目を瞬かせると、しばらくして、もう堪えきれないというように声を立て、弾けるように笑っていたものだ。
やがて母は笑い声を収めると、くちなしの頬に両手を触れて、優しく微笑む。
『父さまとは結婚できないけれど、大丈夫よ。くちなし……私とあの人の、可愛い子。あなたの前にもいつか、きっと現れるわ。母さまにとっての、父さまのような。たとえ何があっても大切で、愛おしいと思えるような、そんな人が』
……母さま。
答えがないことは、わかっている。
それでもくちなしは心の中で、今は亡き母に語りかけずにはいられなかった。
(私には、無理なのです。私は嫌われ者です。誰からも望まれず、誰からも愛されない。だから、そんなふうに恋しいと思える方に出会えたとしても、きっと私は、その方からも見捨てられてしまうでしょう)
くちなしの銀色の髪を愛おしんでくれたのは、亡き両親だけだった。
後から聞けば、佳江の出産に立ち会った産婆は、くちなしを見るなり絶句したという話だ。
こんな赤子は未だかつて見たことがない。
不吉を呼ぶ鬼子だと、ひどく不気味がっていたのだという。
けれど智行も佳江も、容貌など気にすることなく、くちなしの誕生を心から喜んでくれたのだ。
両親が今も生きていたならば、くちなしは二人から愛されて、特異な容貌ながらも幸せに育っていたのかもしれない。
……けれど二人は、くちなし一人を残して、いなくなってしまった。
両親の死後、孤児になったくちなしは、やむなく智行の生家である八條家に引き取られた。
その頃にはすでに、八條家の当主は智行の兄にあたる兼時へと、代替わりがすまされていた。
しかしそこで待ち受けていたのは、八條家の面々のみならず、使用人にすら蔑まれ、罵られる毎日だった。
『くちなしって名前、ほんと、あんたにぴったりよね』
『巷じゃ死人に口無し、なんて言い方もあるんだろ? 昨日の食事の席で旦那さまも同じことを仰っていたよ。あの山姥はこの家じゃ死人も同然、誰にも逆らうことは許されない。あたし達だって、いくらでもこき使っていいってさ』
かつて両親が慈愛をこめてつけた名は、八條家に引き取られてからというもの、蔑みの意図から「口無し」と呼ばれるようになった。
「口無し」なのだから口答えは許されない。
言われた通りに仕事をこなせなければ罰を与えられ、折檻の痛みに耐えかねて悲鳴を上げれば、醜い声を聞かせるなと罵倒された。
特に、くちなしの従姉で年の近い鞠花は、ことあるごとにくちなしを嘲ったものだった。
『お前は疫病神なのよ、口無し。その不気味で醜い髪がその証拠。お前はそうやって不幸ぶっているけどね、お前の両親を殺したのは、他でもない、お前自身だわ』
智行と佳江は事故によって命を落とした。
同じ事故に遭いながらたった一人生き残ったくちなしを、鞠花が何かにつけて疫病神と呼んだのはそのためだ。
『ああ恐ろしい。みんな、口無しに近づいてはだめよ。あの子に近づけば、不幸になるのよ。何せ、あの子は山姥なのだもの。自分の親だって呪い殺したんだから』
見た目や生まれが特異な者を、ほとんどの人は拒み、憎み、遠ざける。
そのことを、両親がいなくなってどれほど思い知らされたことだろう。
(私は、山姥。疫病神。近づいた人に不幸をもたらす人間だから)
……わかっている。
仕方のないことだ。
くちなしは明らかに、八條家の壮麗な屋敷の中にあって、視界に入れるのすら不快な異物でしかなかった。
異物を見れば、排除したり、侮蔑したりしたくなるのは、人間としては無理からぬこと。
だから、そのうちにくちなしは、何を言われようがされようが、理不尽だとは思わなくなっていた。
仕方がない。
仕方がないことだと、思わなければいけない。
悪いのは、奇怪な姿をして生まれてきてしまった、くちなしの方なのだから。