五.Ma chérie ―2
すると、マダム・リリィはいたずらっぽく微笑んで、梔子の左の頬に顔を寄せてきた。
「あ……」
耳たぶの近くに聞こえたのは、口づけの音だ。
マダム・リリィは梔子の右頬にも自分の頬を触れ合わせると、同じように唇でちゅっと音を立てる。
「あ、あの……?」
たまらず赤くなって狼狽する梔子に、マダム・リリィは花咲くような笑みを浮かべて言った。
「わたしの生まれた国ではね、こうやって挨拶をするの。この国とはちょっと違うでしょ? ああ、そうだわ。さっき、あなたの目にはわたしと紅月が口づけしているように見えたのかもしれないけれど、ふりだけよ。音を立てただけ。本当にはしていないわ」
「あ、挨拶……ですか?」
紅月とマダム・リリィは、口づけし合っていたわけではない。
それを聞いてどっと安堵を感じつつ、戸惑いはまだ消えなかった。
だって、ちょっとどころかあまりにも違う。
マダム・リリィの祖国では、初対面の人にもこんなに距離の近い挨拶をするのだろうか。
目を白黒させる梔子に、紅月が何かに気づいたように声を上げた。
「ああ、そうか。仏蘭西での挨拶は、ここだとたいていの人には驚かれるんだったね。すまない、梔子。もっと早くに教えていれば、貴女を戸惑わせることはなかっただろうに」
「そうよ、紅月。あなたの大切な人を悲しませてはだめ。梔子、とってもつらい気持ちになっていたわ。だって梔子は、紅月のことが大好きなのだもの」
「……え」
「あ、あの、リリィさん……っ!?」
(だ、大好きって……!?)
至極あっさりと言ってのけたマダム・リリィに、梔子はひどく慌てふためく。
紅月も少なからず動揺しているらしい。
彼の瞳には驚きが満ち満ちている。
たった一人、発言の主であるマダム・リリィだけが不思議そうに首を傾げていた。
「……? 二人とも、何をそんなにびっくりしているの? 梔子は紅月のことが大好きだし、紅月はもうずっと昔から梔子のことが大好きなのではないの?」
「それは……私は、そのとおりだが……」
どうしよう、と梔子は思った。
マダム・リリィに指摘されて、改めて自覚する。
(私は、紅月さまのことが……)
けれどまだ、その先を口にするための自信が梔子にはない。
――私なんかが、本当に紅月さまにふさわしいの……?
どうしても、そう思ってしまうからだ。
「……梔子」
聞こえてきたのは、いつになく戸惑いに満ちた紅月の声だった。
いつも自信と余裕に溢れて見えた彼らしくない、少しばかり不安の混じったような声。
「……ええと、そうだな。リリアーヌの言葉が本当なら、貴女は彼女に妬いたということかい? 私が彼女に、口づけたように見えて……」
「…………っ」
そう尋ねられて、心臓が跳ねるように鼓動する。
――どうしよう。どう答えたら……
やがてとっさに口にしてしまったのは、あまりにも正直な答えだった。
「ご、ごめんなさい……。あの……、あの、わからないんです。でも……紅月さまとリリィさんが、恋人どうしだったんだって思ったら……すごく、胸が痛くて……苦しいような気持ちになって……」
言いながら、梔子は自分の顔が急速に真っ赤になっていくのを感じた。
恥ずかしい……!
けれどこわごわと顔を上げて、その先に見た紅月の姿に、息が止まりそうになるくらい虚をつかれる。
「梔子。……悪いが、しばらく私を見ないでいてくれるかな」
「え!? あ、はいっ……ええと、その、わ、わかりました」
慌てて顔を伏せたけれど、見てしまったものはしっかりと目に焼きついていた。
(紅月さまも、お顔を赤くされていた……)
赤くなった顔を手で隠そうとしていた紅月の表情が、どうしても頭から離れていかない。
やがて聞こえてきたのは、あまりにも真剣な彼の声だった。
「梔子。貴女を不安にさせてしまって、すまなかった。でも、誓って言うよ。私には貴女だけだ。私は貴女以外の女性と付き合っていたことはないし、想いを寄せたこともない。だから、貴女が不安に思う必要は少しもないんだ。……信じて、もらえるかな」
「……は、はい……」
……貴女だけだ、だなんて。
何の衒いもなくまっすぐに告げられた言葉に心が揺さぶられ、梔子はどうにか頷くだけで精一杯だった。
しばらく経って、向かいあったままどぎまぎしている二人の間に響いたのは、鈴を転がしたような軽やかな笑い声だった。
「……ふふ。紅月も梔子も、とっても可愛い。ねえ茶々丸、あなたもそう思うでしょ?」
マダム・リリィがかがみ込み、茶々丸を撫でてやる。
元気よく鳴いた茶々丸に、マダム・リリィが答えた。
「ええ、本当にそうよね。……え? 二人はお客さまなのだから、早く話を聞いてあげなさいって?」
茶々丸がまたわんわんと鳴く。
マダム・リリィの着ている服の裾を噛んで引っ張り、何やら急かしているような様子だ。
「わかった。わかったわ、茶々丸。二人の案内をお願いね。紅月、梔子。ちょっと待っていてね。庭仕事をして、少し汗をかいちゃったの。着替えをしてから行くわ」
そう言ってマダム・リリィは駆け足で去り、後には紅月と梔子、そして茶々丸だけが残される。
茶々丸は尻尾を振ると、わんっ、と一声鳴いて屋敷の方へと向かっていく。
それを見て紅月が言った。
「ついてこい……ということかな。行ってみようか、梔子」
「はい」
紅月の隣に並び、梔子も歩き出す。
茶々丸の後を追って歩きながら、梔子は思わず紅月に尋ねていた。




