五.Ma chérie ―1
やがて、梔子が紅月とともにたどり着いたマダム・リリィの店は、一見すると小さな屋敷のようだった。
淡い色合いのふんわりとした花が咲き、甘く清らかな香りが漂う愛らしい庭園に一歩足を踏み入れると、まるでお伽噺の世界に入り込んだかのような気持ちにさせられる。
白や黄色の睡蓮が咲く庭池のそばには、小ぶりなベンチが置いてあり、そこでくつろいでいた柴犬が、梔子と紅月の訪れに気づいて茶色の耳をぴんと立てた。
柴犬はベンチをぴょんと降りると、尻尾を振りながら梔子の方へと駆け寄ってくる。
「わっ」
やがて柴犬は梔子の足元に座ると、つぶらな瞳をじっと梔子に向けてきた。
尻尾をぱたぱたさせ、笑った顔をしているように見える柴犬は、とても機嫌がよさそうだ。
(可愛い……)
思わず口元が緩むもののどうしていいかわからずにいた梔子に、紅月が柴犬のそばにかがみ込みながら言った。
「マダム・リリィが飼っている犬かもしれないね。梔子に撫でてもらいたがっているのかもしれないよ」
「私に……?」
「ああ。こうするといい。首のまわりを、こんなふうに……」
紅月はそう言うと、柴犬の首のまわりに手を触れ、両側から撫でてやっていた。
柴犬はうっとりしたように目を細めると、紅月の手に頭をすりつけて喜ぶ仕草を見せる。
梔子もどきどきしながら柴犬に手を伸ばした。
紅月がやって見せたように柴犬に触れてみる。
日の光を浴びた茶色の毛は、ふさふさとしていて暖かかった。
そっと撫でると、柴犬はわんっと嬉しそうに鳴く。
くるくるとその場を回ったかと思うと、くうくうと気持ちよさげに鳴き声を漏らしながら、梔子の手を舐めてくる。
(く、くすぐったいわ)
柴犬のあまりの可愛さに、思わず笑い声が零れるのを抑えられない。
どこからかそよ風のような声が聞こえてきたのは、そんな時のことだった。
「わぁ、珍しい……。茶々丸が自分から誰かに近づいていくなんて。その子はすごく繊細なの。普段はとっても人見知りなのに」
「え……?」
澄んだ柔らかな声に顔を上げれば、百合の花畑の中に妙齢の貴婦人が立っていた。
その容姿に、梔子は思わず釘付けになってしまう。
(なんて、綺麗な人……)
ふわりと風になびくのは、ゆるやかな波を抱いた亜麻色の髪だ。
貴婦人の肌は透き通るように白かった。
夏の森のような緑の瞳が、興味深そうに梔子の方へと向けられている。
そして何より目を引くのは、彼女が身にまとっている服だった。
それは着物にも、それでいて西洋のドレスのようにも見える、和柄とレースをふんだんに散りばめた見たこともない服だ。
呆気にとられていると、紅月が立ち上がって挨拶をする。
「Bonjour, Madame. 久しぶりだね、リリアーヌ。まさか、貴女が本当にこの国に移り住んでくれるとは」
「Bonjour……待って。あなた、もしかして……紅月?」
異国の言葉を混じえて挨拶を交わした二人を、梔子は驚いて見つめた。
(この方が、マダム・リリィ……?)
けれど次の瞬間、梔子はさらに驚愕に陥ることになる。
マダム・リリィはぱあっと明るく微笑んだかと思うと、紅月のもとまで走り寄ってきて、彼を思いきり抱きしめたからだ。
「久しぶりね、紅月! あなたが来てくれて嬉しい!」
(…………っ!?)
思わず声が出そうになってしまったのを、梔子はすんでのところで耐えた。
がん、と頭を後ろから強く殴られたような衝撃が梔子を襲う。
だって二人は――紅月とマダム・リリィは、親しげに抱きしめ合い、お互いの頬に口づけし合っていたのだから。
愕然とする梔子の目の前で、二人は言葉を交わし合う。
「相変わらず貴女は元気だね。この国での暮らしはどうだい? 楽しんでくれているといいが」
「もちろんよ! ここがわたしの新しいお店兼お家なのだけど、ねえ、見て! あの日当たりのいい場所に畳のお部屋を作ってもらったの。すうっとした、すごくいい匂いがするのよ」
二人の会話を聞きながら、梔子は目の前が真っ暗になって、何も考えられなくなっていくのを感じていた。
(紅月さまは、リリィさんと……)
普通、恋人でもない人とあんなふうに顔を触れ合わせたりしない。
ましてや、頬に接吻したり、抱きしめ合ったりするなど。
(……恋人)
無意識のうちに、手でぎゅっと胸を抑える。
考えたくなかった。信じたくなかった。
けれど、紅月はマダム・リリィと――
やがて、呆然としたまま立ち尽くすほかなかった梔子に、マダム・リリィが再び視線を向けてきた。
びくっと震えた梔子を見て、それから紅月を見上げる。
「紅月。この子は? 綺麗な髪。まるで天使の羽みたい」
「彼女は梔子だよ。私の婚約者で、最愛の人だ」
「最愛の……。それならあなたが、紅月の“Ma chérie”?」
マダム・リリィは大きく開いた緑の瞳をじっと梔子に向けてくる。
その眼差しに敵意は感じられない。
ただただ純粋な驚きだけを湛えて、彼女は梔子を見つめてくるのだった。
(リリィさんは、今、なんて……?)
明るく透き通った瞳。
鼻が高く、彫りの深い顔立ち。
マダム・リリィはひと目で異国の人だとわかる面差しをしていた。
けれど彼女の話すこの国の言葉は流暢で、だからこそ、聞き取ることのできなかった単語が気になった。
マシェリ、と。
そう聞こえた気がしたけれど……
するとマダム・リリィは何の前触れもなく、梔子のほんの目の前に立った。
深く澄んだ緑の瞳にじっと見つめられると、心の奥底まで見透かされているような、そんな不思議な錯覚に陥る。
しばらくして、マダム・リリィは唐突に言った。
「心配しなくていいのよ。紅月の“Ma chérie”は世界でたった一人だけ。あなただけだもの」
「え……?」
それはまるで本当に、マダム・リリィには梔子の心がすべてわかっているかのような。
そんな言葉に、思わず息を呑んで瞠目する。




