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三.安らぎと決意 ―9


それは、静貴の屋敷を出た後。


梔子は紅月とともに街中に出ていた。

車は静貴のいる屋敷に駐めさせてもらったまま、歩いて目的の建物を探している。 


(よかった。このあたりは、それほど人が歩いていなくて……)


人通りの多い通りからは少し外れていて、すれ違う人の姿がまばらなことに梔子はひそかに安堵する。


人目を引かないよう、梔子はスカーフを頭に巻き、髪が見えないようにしていた。

それでも頭を布で隠した姿は少し目立つが、無防備に髪を(さら)すよりはましだった。


「さて……そろそろ店が見えてきてもいい頃なんだが」


紅月が両脇に並んだ建物を眺めながら言う。



――静貴の提案。

それは、梔子にお詫びの品を贈りたい、ということだった。


『マダム・リリィ。何年も巴里にいた紅月なら、もちろん彼女のことは知っているだろう?』

『むろん知っているし、何度か会って話したこともあるよ。そういえば、少し前にこちらに渡ってきたと言っていたか』


静貴が口にしたマダム・リリィという人物を、どうやら紅月は知っているらしかった。


首を傾げていた梔子に、紅月と静貴が教えてくれる。


『マダム・リリィはいつもとてもすばらしい衣装を作る仕立師でね。他国の王室から注文を受けて王女のドレスを作ることもあったようだし、ブルジョワの娘達のドレスに関して、巴里の流行は彼女が作っていると言っても過言ではないほどだったんだよ』

『彼女は長らくこの国の服飾に興味を持っていたようで、研究のためにと、腹心のお針子達とともにこちらに来たばかりなのだよ。ただ、まあ……彼女もかなりの変わり者だ。話し方はふわふわしているし、性格は猫のように気まぐれ。彼女の気に入った人間相手にしか服を売らないし、作らないことで有名なのさ』


聞いただけでも、(くだん)のマダム・リリィが相当に風変わりな人物であることはわかった。


けれど梔子が特に気にかかったのは、


(気に入った人相手にしか、作らない……?)


すると静貴は、「少し待っていてくれたまえ」と言って応接間を出ていった。

しばらくして戻ってきた彼の手には、一枚の書状。

静貴は紅月にその書状を差し出して言った。


『依頼状だ。梔子さんのために最上級の衣装を渡すよう、僕の名で記してある。これを持っていって、マダム・リリィに見せたまえ』

『わ、私に……!? ですが……っ』


梔子はとっさに声を上げた。

梔子などのためにそんな上等すぎる衣装を贈ってもらうなど、あまりに静貴に申し訳ない。


それに、


(私には……そんな素敵な衣装、ふさわしくないのに……)


思い出したのは、梔子の従姉、鞠花の姿だ。


濡れたような黒髪も、白雪のようなしっとりとした肌も、人形のような美しい顔立ちも、何もかも完璧だった鞠花は、社交界に出る前から外からの贈り物が絶えなかった。


鞠花のような華やかな美貌の娘なら、きっとどんなドレスもよく似合う。

マダム・リリィも、鞠花が着るドレスならば喜んで作るだろう。


けれど痩せて見た目の悪い梔子のために、マダム・リリィのような名のある人が服を売ってくれるとは思えなかった。


梔子が気後れしているものと思ったのだろう。

静貴が言った。


『遠慮しているのかね? 紅月の話だと、きみは普段から並外れて慎ましいというが、僕に対して気兼ねすることはない。謙虚は美徳だが、時には素直に厚意に甘えるというのも大切なことなのだよ、梔子さん』

『わかっていないな、静貴』


すかさずそう言い、肩をすくめたのは紅月だ。

紅月は梔子に向き直ると、梔子を安心させるようにゆったりとした声で言った。


『梔子。私はマダム・リリィとは旧知の間柄でね。彼女の人柄はよく知っている』

『え……?』

『大丈夫だよ。彼女なら必ず、貴女のことを気に入るはずだ。だから、何も恐れることなんてない』

『そう、でしょうか』


……不思議。

そう、梔子は思う。


大丈夫だよ、と。

紅月にそう言ってもらえただけで、胸の中に重く立ち込めていた不安の霧が、少しだけ薄らいでいくような気がしたのだ。


……とは、いえ。


(やっぱり、緊張するわ……)


店を探して歩いていく間にも、梔子の緊張はぶり返していた。


マダム・リリィに会うのは、正直なところ恐かった。

にも関わらず、今、梔子が一刻も早く店にたどり着きたいと願っているのは、とにかく人目を引くからだった。


紅月は、たぐいまれな絵の才だけでなく、神秘的であでやかな美貌の持ち主として有名だ。

紅月自身が気づいているのかはわからないけれど、時々すれ違う誰もが、彼の姿に目を吸い寄せられていた。


注目されるのは居心地が悪い。

完璧な美貌を持つ紅月と、髪を布で隠した俯きがちの娘。

どう見ても釣り合いのとれていない二人が連れ立って歩くさまは、人々の目にどのように映っているのだろう。


やがて紅月は人に尋ねてみることにしたらしい。

ちょうど近くの店先で品出しをしていた娘に声をかける。


「失礼。少し尋ねたいことがあるのだが、いいかな。このあたりにマダム・リリィという異国から来た女性が店を開いているだろう。彼女の店がどこにあるのか知らないかな」

「マダム・リリィ? ……ああ、確かにそんな名前の綺麗な人がいたわねぇ。でも確か、少し前にようやく本店の改修が終わったからって、このあたりを出て行っちゃったのよ。ほんとについ最近ね」

「出て行った? そうか、それならこの通りに開いていた店は一時的に借りていただけだったということかな」

「そうみたいね。それにしても、あのお店に用事? 噂に聞けば、マダム・リリィの作る服はそれはもうすばらしい出来らしくって、華族のお嬢さま方が殺到してるって話よ。ただし値段も目の玉が飛び出るほどだとか。……あなたは、もしかして」


娘は先ほどからちらちらと梔子に視線を向けてくる。

梔子が紅月とどういう関係にあるのか気になったのかもしれない。



紅月は優雅に微笑むと、梔子に視線を向けながら言った。


「私の妻になってくれる彼女に、贈り物をするためだよ。もし知っていれば、その新しい店の場所を教えていただけないかな」

「え、ええ……もちろんよ」


娘は親切にも古紙に地図を描いて渡してくれた。

紙を受け取ると、紅月はゆったりと微笑んで言う。


「ありがとう、お嬢さん。さて、梔子。ここに行ってみようか」

「は、はい」


視線を感じて少しだけ振り返れば、娘は頬を上気させ、ぽうっとした目で紅月の後ろ姿を見送っていた。


……そういえば、と梔子は思い出す。

帰り際、梔子に屋敷での一件をもう一度謝罪してきた静貴は、こう言っていたのだ。


『みっともないことだとは思うがね、少し言い訳をさせてもらうと、きみも同類の娘ではないかと思ってしまったのだ』

『同類……ですか?』

『紅月はあの見た目で、しかも人当たりがいいだろう? 昔からあの男は、何やら勘違いした娘達につきまとわれることが何度もあったのさ。だから、あいつの屋敷の前にきみがいるのを見た時、きみもそういう娘達の一人に違いないと考えてしまって……。すまない、やはり言い訳など聞き苦しいばかりだ。今僕が言ったことはすべて忘れてくれたまえ』


ちら、と紅月の横顔を盗み見る。

大勢の娘達が紅月に惹かれるのも無理はないことだと思う。


端正な顔立ちに、流れるような漆黒の髪。

彼岸花を思わせるような真紅を秘めた瞳は、彼に一瞬見つめられただけでも吸い込まれてしまいそうに美しい。


(どうして紅月さまは、私なんかをお選びになったの……?)


途端にもたげてくるのは、もうずっと梔子が胸中で持て余してきた疑問だった。


紅月は、いつも梔子を優しく気遣ってくれる。

誰かからの愛やいたわりに飢えていた梔子を、これ以上はないというほどに甘やかして、大切にしてくれる。


けれど、だからこそ、どうしてもわからなくて仕方ないのだ。


どんな男も魅了される、鞠花のような美しい娘が相手ならばわかる。


けれどなぜ紅月は、出会ったばかりのはずで、しかも誰からも忌み嫌われていた梔子に、誰の目もはばかることなく溢れんばかりの愛を注いでくれたのだろうと――


すると、梔子の視線に気がついたのか、紅月が梔子に目を向けた。

まっすぐに目と目が合ってしまって、梔子は思わず顔を赤らめる。


「梔子?」


慌てて目を伏せ、早口に言った。


「な、何でもございません」


また、じっと見つめてしまった。


(……恥ずかしい)


視線の理由を紅月が追及せずにいてくれたことに、梔子は感謝する。

一度頬に集まった熱は、なかなか引いてくれなかった。



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