一.口無しと梔子 ―1
「お前みたいな薄汚い山姥が、よりにもよって篁さまの妻だなんて。不釣り合いもいいところよね」
――そろそろ街路沿いに紫陽花が色づこうかという、梅雨を間近に控えたその日。
くちなしは今、肌になじまない晴れの和装に身を包んでいた。
篁紅月のもとへ向かうべく、いよいよ八條家の屋敷を後にしようとしたくちなしを見かけて、追ってきたのだろうか。
屋敷の中から現れた美しい従姉――八條鞠花は、柳眉を曇らせ、吐き捨てるようにして言った。
「いいこと? 口無し。あの方がお前なんかを娶りたいと仰ったのは、お前の山姥のようなその姿を物珍しく思われたから。ただそれだけよ。もちろんわかっているのよね?」
くちなしは伏し目がちにうなずいた。
「存じております」
わざわざ念を押されなくとも、すでに承知のことだ。
山姥。
それは、くちなしの姿を一目見て気味悪がった人々が、眉をひそめながら言い放つ言葉だった。
くちなし自身ですら、鏡を見るたびにそう思う。
ろくな手入れもできず、ぼうぼうに伸ばしたままの髪は、老婆のようなくすんだ銀色。
この国の人々の多くは黒や茶の髪をしている中で、銀の髪を持つくちなしの容貌はあまりにも異質すぎた。
しかも荒れた肌は土気色で、すり切れたお仕着せをまとった身体は痩せすぎて骸骨のよう。
常人の誰もがくちなしの姿に、山奥にひそみ人を食らうという山姥を思い起こさずにはいられないのも、無理はない話だった。
しかし、あの夜。
篁紅月はくちなしを一目見て気に入り、妻にすると決めたのだという。
彼のくちなしへの求婚は、当然ながら八條家を大きく揺るがす事態となった。
八條家当主、兼時はたいそう困惑していたものだ。
『篁殿。ぶしつけではございますが――なぜ、あの娘なのです? ご覧になられた通り、たいそう見た目が悪いですし、しつけもろくになっておりません』
その問いはもっともなことだった。
篁紅月はじめ、大勢の令息や著名人を招いたあの舞踏会は、そもそも、八條兼時の娘である鞠花の誕生日を祝うための催しだった。
とはいえ、祝いの会というのはあくまでも体裁にすぎない。
実際には、招待客の誰かに鞠花を見初めてもらえればという狙いのもと、開かれたものだった。
にもかかわらず、求婚を受けたのは鞠花ではなく、よりにもよってくちなしだった。
兼時や鞠花の戸惑いは推して知るべしだろう。
兼時は再三、くちなしではなく鞠花をと勧めたものの、
『見た目が悪い? 失礼ながら兼時殿。あなたの目には、彼女がそのように映っておられると? だとするならば、我々は悲しいまでに気が合わない者どうしのようだ。非常に残念なことながらね』
紅月は大仰に肩をすくめ、はっきりと言い放った。
結局、最後まで彼が決断を翻すことはなく、急遽、縁談がまとめられることに相成ったのだ。
……そうしてついに、くちなしは八條家の屋敷を出立する日を迎えた。
今日からくちなしは、篁紅月の婚約者として、彼のもとで過ごすことになる。
鞠花はあでやかな赤い唇を笑み曲げ、悠然と言った。
「なんて可哀想な口無し。飽きられて捨てられるのがわかり切っているのに、わざわざ嫁がなければならないだなんて。――まあでも、そうなっても、いつでも帰ってきていいのよ。私がお前を拾ってあげるわ。お前には、他に帰る場所なんてないものね?」
それは、嘲笑と毒気をたっぷりと含んだ言葉だった。
けれど、睨みつけたり沈黙したりして、鞠花の機嫌を損ねるようなことはしない。
まして、理不尽だと言い返すことなど。
(だって……鞠花さまが言っているのは、本当のことなのだから)
思えば、紅月に見初められたのは夜の闇の下でのことだった。
月の明るい晩だったとは言え、くちなしの姿がはっきりと彼の目に映っていたかは怪しいところだ。
だから、改めて日の光のもとでくちなしの姿を見れば、彼はあっさりと婚姻の申し出を取り消すかもしれない。
それは充分にあり得る話だった。
もしかすると、今日のうちに追い返されることだって、考えられなくもない。
「今まで、お世話になりました」
……紅月に追い返されたとて、構わない。
醜いくちなしは、ただそこにいるだけで、まわりにいる人々を不愉快な気分にさせてしまうのだ。
だからくちなしには今までのように、家族に詰られ、使用人達にすら嘲られて、泥と汗の匂いをさせながら働いている方がふさわしい。
他の令嬢達のように嫁入りし、その先で安らかに暮らすなど、くちなしにはとうてい不可能なことなのだから。