三.安らぎと決意 ―5
「梔子、右手を出して」
「え?」
恐怖に手を震わせる梔子に対して、それは突然の指示だった。
わけもわからないまま梔子が手を出すと、紅月はその手を取る。
かと思えば、彼は梔子の手のひらに指を立て、何かの文字をすばやく書き始めた。
「人人人……っと。さて梔子、これを飲み込んで」
「え……? あ、あの……?」
「こうするんだ。人人人。三回書いたら手のひらをこう……口に当てる」
紅月はそう言って、手のひらにのせたものを飲み込むような仕草をした。
梔子は戸惑いつつも、見様見真似で紅月と同じようにする。
「こ、こうですか?」
「ああ、それで大丈夫だよ。これはちょっとしたいたずらの効果がある呪いの一種でね。うまくいっていれば、今頃静貴はくしゃみが止まらなくなっているはずだ」
「え!?」
そんな呪いを二人揃ってやったら、今頃静貴は困ったことになっているのでは……。
梔子は血相を変えて声を上げた。
「あの、紅月さま。呪いを解く方法はあるのでしょうか……?」
「残念ながらないな。まあいいじゃないか。このくらいの仕返しは許されてしかるべきだ」
「ないのですか……?!」
慌てふためく梔子だったが、そんな梔子を見て紅月は声を立てて笑う。
「冗談だ。本当のところは緊張を解くためのおまじないだよ。効果があるかどうかは、まあ、人によるけれど」
「緊張を解く……?」
「そう。巷ではよく知られたおまじないだが、貴女は知らなかったんだね」
「は、はい……」
一気に気が抜けて、全身が脱力してしまう。
私は、からかわれたんだわ……
その証拠に、紅月はくつくつと肩で笑っていた。
「まさか本気にするとはね。貴女はやっぱり、純真で可愛い人だ」
「からかったのですね……」
「すまないね。貴女が本気で信じたようだったから、つい。でも、少しは気が紛れただろう?」
「あ……」
問われてやっと、気がついた。
(さっきより、緊張しない)
自分では少しも抑えられなかった手の震えも、今やすっかりなくなっていたのだった。
「梔子」
紅月に名を呼ばれる。
穏やかで、優しくて、彼の声で名を呼んでもらえるだけで、なぜだか勇気づけられるような気がした。
「大丈夫だよ。貴女は身も心も美しい人だ。ひと月も貴女を見てきた私に言わせてみれば、もっと堂々と胸を張ってもいいくらいなんだよ」
「そんな、こと……」
「私を信じて、梔子」
そう告げられ、まっすぐに視線を向けられれば、もう何も言うことはできなかった。
人前に出る恐怖は、消えない。
けれど、梔子を美しいと言ってくれる紅月の言葉は、自信に満ちていて。
梔子が自分のことを信じられなくても、彼の言葉なら信じられると、不思議とそう思うことができた。
「さて。それでは行こうか」
「はい」
……きっと、大丈夫。
紅月の後に続いて、梔子はそっと、しかし確かな一歩を踏み出した。