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三.安らぎと決意 ―3


「梔子。私は嘘は言わないよ。貴女は誰より愛らしい人だと思う」

「そ、そんなことは……」

「だから、何度だって言うよ。私は貴女が私の隣にいてくれることが嬉しいんだ。ここにいることを選んでくれてありがとう、梔子」


……もう、何も考えられなくなってしまった。

居たたまれなさも、恥ずかしさも、すっかり薄らいで、でもその代わりに……


(紅月さまは……ずるい)


じわりと目の縁が濡れるのを感じて、梔子は慌てて顔を(そむ)けた。

紅月に気づかれませんようにと願いながら、鼻をすする。


紅月はいつだってそうだ。


いたって何気ないふうに彼は言う。

梔子にそばにいてほしいと。

梔子とともにいられることが嬉しい、と。


でもそれは、もうずっと長い間、梔子がほしくてたまらなかった言葉だった。


こんなにも容易(たやす)く、紅月は梔子を喜ばせて、寂しさで凍ってしまいそうだった梔子の心を救ってしまうのだ。


「それにしても、物語の中の世界……か。私はあの絵について何も説明していないはずなのに、やっぱり貴女は見る目があるね」

「え……?」


涙の名残(なごり)を払うように目を瞬かせ、慌てて梔子は顔を上げた。


紅月は立ち上がると、アトリエの奥にある書棚へと向かう。

そこに並んださまざまな資料や帳面の中から、彼は一冊の本を取り出した。


もとのように梔子の隣に座った紅月は、手にした本を見せてくれる。

大きくて分厚い革張りの本だ。

表題も中身も外国の言葉で書かれていて、梔子には読むことができない。


「この本は、カルチェ・ラタン……巴里(パリ)にある学生街で手に入れたものだから仏蘭西(フランス)の言葉で書かれているけれど、この国でも翻訳されて出版されている。アラビヤンナイトと呼ばれているんだけれどね」

「アラビヤンナイト……ですか?」

「ああ。砂漠の世界で繰り広げられる、幻想的で摩訶不思議な物語だ。さっき、梔子はあの絵を物語の世界のようだと言ってくれたけれど、まさしくその通りなんだよ。私は、アラビヤンナイトの中の世界を絵に描いていたんだ」


紅月が見せてくれた本を、梔子は食い入るようにじっと見つめる。

それから彼が描いていた絵を振り返った。


(アラビヤンナイト……。砂漠の世界……?)


どきどきと、梔子の胸が高鳴る。

もっと、聞いてみてもいいのかしら……?

しばらく、梔子は逡巡(しゅんじゅん)していた。


けれど紅月が本を開き、そこに並んだ外国の言葉と、そして目の覚めるような色彩で描かれた挿絵を目にした途端、ついに好奇心を抑えきれなくなる。


梔子は意を決し、紅月に尋ねた。


興味を強く惹かれるあまり、紅月の持つ本の方へ、つい身を乗り出してしまっていたことにさえ気づかずに。


「紅月さま。あの、さばく、というのは、いったい何なのでしょうか。さばくというのが、物語の舞台なのですか?」

「ああ、そうだったね。まずはそこから説明しなければ。さばくというのは、漢字でこう書く。砂に、漠然の漠、と……」


それから紅月は、さまざまなことを梔子に教えてくれた。


海の外には、この国の夏よりもずっと暑く、水も緑もほとんどないところがあって、それが砂漠なのだということ。


紅月の絵に描かれていた駱駝(らくだ)という動物は、背中のこぶに養分をためておけるおかげで、厳しい砂漠の環境でも生きていけるのだということ。


アラビヤンナイトは、そうした砂漠の国々を舞台に紡がれた、たくさんの挿話からなる幻想譚(ファンタジイ)なのだということ……


「とても、信じられません……。そんな場所にも、人が住んでいるのですか?」

「砂漠にも水が湧く場所があるんだよ。オアシスというのだけど……砂漠に生きる人々は、そうしたオアシスのまわりで暮らしている。気候が違うからね、当然食べるものもこことは違うんだ。向こうでよく食べる棗椰子(なつめやし)の実はとても甘くて、黒糖のような味がしてね……」


紅月の話に、梔子は目をきらめかせながら聞き入る。


彼が教えてくれる異国の話は、どれも梔子には新鮮で、楽しくて仕方がなかった。


聞いているだけなのに、まるで梔子も異国を旅したような気分になれるのだ。


「……それで、ランプの精霊の力で大金持ちになったアラジンは、ついにハドルルブドゥール姫に求婚するんだ。でも、まさかこれでめでたしめでたしといくわけがない。ランプを何としても手に入れたい悪い魔法使いは奸計(かんけい)を巡らして――」


いつしか紅月の話は砂漠の国々の風習から、アラビヤンナイトの内容に移ろっていた。


彼の語る貧しい若者とランプの精霊の物語に、梔子は夢中になって耳を傾けていた。


けれどある時、急に紅月が話すのをやめてしまう。


(紅月さま……?)


それまでいきいきと語っていた紅月は、なぜかばつの悪そうな顔をしていた。

首を傾げる梔子に、彼は申し訳なさそうに笑って言う。


「すまない。つい夢中になって語りすぎてしまった。長々と聞かされて、退屈してしまっただろう?」

「え……? いいえ、そんな……!」


思いがけない紅月の言葉に、慌てて梔子は首を横に振る。


……退屈、だなんて。

なぜそんなことを紅月が言い出すのか、梔子にはちっともわからなかった。


紅月の話が退屈なわけがない。


絹のようになめらかな彼の声は耳に心地よく、街角に現れた講釈師のように抑揚をつけて語ってくれる挿話は、どれも魅力的で。


むしろ、許されるのならばいつまでも聞いていたいくらいだったのに。


「……もっと……、聞かせてください」


気づけば梔子は、そう口にしていた。


「私は……紅月さまの語られるお話が好きです。こんなにわくわくする、楽しいお話……聞かせていただいたことなんてなかったから……だから」

「梔子――」


紅月の瞳が驚きにゆっくりと見開かれる。


彼は呆気に取られたように梔子を見つめていたが、やがてふわりと微笑んだ。


少し照れくさそうに、けれど心の底から嬉しそうに。


「ありがとう。私の話をもっと聞きたいだなんて、そんな嬉しいことを言ってくれたのは貴女が初めてだ」

「え……?」


今度は梔子がぽかんとする番だった。


紅月が語ってくれる異国での経験話や物語に、梔子は強く心惹かれていた。

それは、梔子だけじゃない。

彼の周囲にいる他の人々にとっても、きっと同じだろうと思っていたのに。


「私が初めて……なのですか?」


信じられない思いでそう尋ねると、紅月は少し不満げな表情を浮かべて答える。


「ああ、そうだよ。誰も貴女のように熱心に耳を傾けてなんてくれない。静貴(しずき)なんかは、きみの欠点は話が長すぎることだ……なんて言って、露骨に嫌そうな顔をしてくるものだよ」

「そ、そうなのですか……」


静貴。

その名を聞いて、梔子ははたと思い出す。


――目障りだ。僕の前から即刻立ち去ってくれたまえ。


紅月の古い友人。

ここにきたひと月前、梔子に胡乱(うろん)な眼差しを向け、冷ややかな言葉を浴びせた青年の名だ。


あの時の彼の眼差しや言葉を思い返すと、今も身が(すく)んでしまう。


できることなら、このままずっと静貴と顔を合わせずにいられたら、どんなにいいかとさえ思う。


……それでも。


ここ最近の間、ずっと考えていたことを梔子は告げる。


「……紅月さま。かねてよりのお願いがございます」

「お願い? 何かな」

「はい」


こわばった面持ちで切り出した梔子に、紅月は一瞬驚いた表情を浮かべた。

けれどすぐに真剣な面差しになって梔子に向き直り、視線で先を(うなが)してくる。


一度目を伏せ、それからためらいを振り捨てるように顔を上げて、梔子は言った。


「どうか私に……静貴さまとお会いする機会を与えていただけませんか」



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