終.初恋の記憶 ―4
「紅月さま」
「…………」
「あの、紅月さま。まだ怒っていらっしゃいますか」
夕刻。
閉館の時間となり、無事に展覧会初日を終えることができた。
しかし改めて皆で集まり、宴会を始める時刻まではまだ余裕がある。
それまで、梔子は紅月とともに、近くの公園を散策することになったのだった。
公園は、すでに夕方の空気に包まれていた。
季節は秋だ。
あたりに目を向けてみれば、白や桃色の秋桜が優しく風に揺れている。
木々はあざやかに色づき、夕日を帯びた姿は思わず見入ってしまうくらいに美しかった。
けれど、穏やかな秋の風景とは裏腹に、紅月は先ほどから浮かない顔だ。
やがて彼は小さな声で、不満そうにぽつりと言う。
「……今夜は、梔子と二人で過ごすつもりでいたのに」
「それは……そうでしたけれど」
美術館の近隣には、おいしい洋食屋がたくさん軒を連ねている通りがある。
展覧会が終わったら、今夜は二人でゆっくり食事を取ろうと、今朝、紅月とそんな話をしたばかりだったのだ。
……けれど。
「皆さん、普段は忙しいですから。こういう時でないと、集まって食事をすることなんてできないと思いますし」
「あの顔ぶれがそろうと、いつもろくなことにならないだろう? 特にあの、琳也とかいう、静貴の腰ぎんちゃく……」
「明るくて、楽しい方ではありませんか。静貴さまにも、ずいぶん目をかけられていらっしゃるようですし」
会えばいつでも楽しそうにしていて、人懐っこく笑いかけてくれる好青年だ。
あまりに素直で無邪気だから、つい年下の青年のように思ってしまうけれど。
(そういえば……藤枝さまは、二十二歳だと仰っていた。私より二つも年上なのね)
そんなことを考えていると。
「……気に入らないな」
「え? あ……こ、紅月さま……!」
ふいに抱き寄せられ、唇を奪われる。
一度ならず、二度、三度と立て続けに繰り返される口づけは、いつもより明らかに強引で深い。
夫婦になってからも変わらず、紅月は梔子に甘かった。
否、それどころか、夫婦になってますます、彼のくれる口づけはさらに甘くなり、遠慮なく梔子を求めてくるようになった気がする。
周囲に人がいようと構わずにキスしたり、抱きしめてきたりするのも相変わらずだ。
「い、いきなり、こんな」
「決まっているじゃないか。よりにもよって、あの静貴の部下を褒めた罰だよ。……だいたい、見ていると貴女は、誰に対しても優しすぎるんだ」
「そんなことは……」
「不安になるんだよ。……貴女は、自分が他の男の目にどれだけ魅力的に映っているのか、まったく自覚がないみたいだから」
……最近、知ったことだけれど。
先ほど、琳也の言っていたことは、当たっていたのだ。
存外、紅月は嫉妬深いところがある、と。
不安になる。彼はそう言ったけれど。
(そんなご心配をする必要は、まったくないのに……)
梔子には、紅月だけだ。
それは今までも、そしてこれからだって、永遠に変わることなど想いだというのに。
だから梔子は、戸惑って上ずった声になりながらも、はっきりと伝える。
「なぜ、不安に思われるのです? 私にとって、特別で……あ、愛しているのは、あなただけだと……いつも、お伝えしている通りです。それに……」
むしろ、不安を感じるのは梔子の方だ。
今はもちろん――昔だって。
だから。
……近頃はずっと慌ただしい日々が続いていて、いつ彼に伝えようかと迷っていた。
けれどやっと、機会を見つけたと思った。
伝えるのなら、今この時だ。
心を決めて、梔子は切り出した。
「以前、紅月さんは、仰っていましたね。国に帰ってきたら、私がもうとっくに別の方と結婚しているのではないかと、恐くて仕方なかったと。……でもそれは、紅月さんだけではありません。昔の私だって、同じだったのですよ?」
「――え」
紅月はすぐに気がついたのだろう。
梔子が、呼び方を変えたこと。
梔子が打ち明けているのは、かつて失ってしまったはずの、過去の記憶の話だということにも……
まさか、と彼の口が動く。
まさか、全部、思い出して……と。
「あなたは、とても素敵な方です。だから……何年も巴里にいらっしゃるうちに、私のことなどお忘れになって、別の方を好きになってしまうのではないかと……かつて、私も、不安で仕方なかったのですから」
「…………」
紅月は、しばらくの間、呆然として梔子を見つめていたけれど。
やがて、笑った。
それは、子どものように無邪気で、底なしに明るく、晴れやかな。
一生忘れられないほどに、眩しい笑顔だった。
「何を言うかな、梔子は……。私が、貴女以外の人を好きになるなんて、天地がひっくり返ってもあり得ない話なのに。でも、そうか……。貴女の言う通り……心配になる必要など、なかったのか」
「そうですよ。当たり前ではないですか。私が恋をしたのは、あなただけです。初めて会った頃からずっと……私には、あなただけだったのですから」
二人、顔を見合わせれば、また声を立てて笑ってしまう。
だって、笑わずにいられない。
今も、かつても、お互いにお互いだけだった。
最初から、何一つ、不安に思う必要などなかったのだから……
「行きましょう。紅月さん」
「ああ。行こう」
梔子が差し出した手を、紅月が握り返してくれる。
握り合った手は温かくて、いつまでだって、彼とこうして手を握っていたくなる。
――秋風の吹く、茜色の夕空の下。
優しく揺れる秋桜の花の道を、二人は身を寄せ合いながら歩いていった。
【終】