三.安らぎと決意 ―2
身を縮こまらせ、梔子は慌てて謝罪する。
「ごめんなさい。私、黙ってじっと見たりなんかして……」
「いや、いいんだよ。何かあったのかい?」
「あ、あの……」
縁側に置いていたお盆を持ち、梔子はおずおずと紅月を窺う。
「差し入れをお持ちしました。今日は特に暑いですから、少しでも涼しくなるようにと……」
お盆に載せた皿の上には、切り分けたすいかが並んでいた。
昼下がり。一日で最も暑さが極まる時間帯だ。
吹く風は涼しいものの日差しが強く、ただじっとしているだけでも汗が滲む。
「その……こちらに、置いておきますので。後で片付けに参ります」
これ以上、紅月の邪魔になってはいけないだろう。
梔子は手近にあった卓の上にすいかの皿を置くと、すぐに退出しようとした。
けれどそんな梔子に、すぐに彼の声がかかる。
「梔子。待って」
紅月は立ち上がると、縁側まで歩いてきて言った。
「私もちょうど休憩をとろうと思っていたところだったんだ。貴女も一緒に食べよう、梔子」
「え? で、でも……」
「いいから。そのすいかはそもそも、私と貴女で食べるようにともらったものだったんだ。だから、ほら」
そうまで言われてしまっては、いつまでも遠慮することもためらわれた。
縁側に二人、並んで腰掛ける。
紅月に勧められるがままに、梔子はひんやりとした果肉にそっと口をつけた。
しゃり、と咀嚼した途端、口の中いっぱいに広がった瑞々しい甘みに、梔子は思わず目を見開く。
「……甘くて、とても……おいしいです」
「本当だ。今年は一段と甘みが強いようだね。ありがとう、梔子。おかげでいい休憩になった」
「…………」
――ありがとう。
そんな何気ない言葉が気恥ずかしくて、けれどどうしようもないほどに嬉しい。
朱に染まった頬を少しでも隠したくて、梔子はすいかを囓るふりをしながら俯く。
(……やっぱり、まだ慣れないわ)
紅月はよく梔子を褒めてくれた。
梔子の作った朝餉をおいしそうに食べてくれて、庭の木や花の手入れの手伝いをすれば「助かるよ」と言って感謝を伝えてくる。
八條家では何をしても、罵倒されることはあっても、感謝などされたことは一度としてなかった。
なのにここに来てから、梔子は紅月から感謝され、褒められっぱなしだ。
家事をするのがこんなに楽しいと感じたことはなかった。
誰かに必要とされることがこんなにも嬉しくて幸せなことだなんて、思いもしなかった。
おかげで梔子は、紅月に働き過ぎだと窘められても、家事に精を出さずにはいられなかったのだ。
――もっと、この方のお役に立ちたい。
そんな思いは、日に日に梔子の心の中で強まるばかりなのだった。
それからしばらくの間、頭上で風に揺られる風鈴の音を聞きながら、すいかを食べた。
庭に咲いた向日葵のあざやかな色彩に目を奪われていると、ふと、梔子は先ほどまで紅月が手がけていた絵のことを思い出す。
このひと月で、梔子は紅月の描く絵を数多く見てきた。
季節の花を描いたものに、人物画や風景画。
彼の絵はどれも目を奪われてしまうようなものばかりだったけれど、梔子が一番心惹かれたのは異国の風景や人々を描いた絵だった。
先ほどまで紅月が描いていた絵もまた、異国の絵だ。
しかも、現実とは思えない、まるでおとぎ話の世界に広がる風景のような――
「あ、あの」
思い切って、梔子は声を上げる。
「ん?」
すいかを食べていた紅月が、梔子に目を向けた。
最近の梔子は、自分から紅月に話しかけることも増えてきた。
それでもまだ、緊張せずに話すことは難しい。
気を抜けば消え入ってしまいそうになる声を叱咤して、梔子は尋ねる。
「わ、私……その、紅月さまがさっきまで描いていらっしゃった絵が、気になって……」
「さっきまでというと……ああ、あの絵のことかい?」
後ろを振り返った紅月に、梔子はこくりと頷く。
「物語の中の世界のような……なんだかとても、不思議な絵だと思いまして。……あっ! あのっ、紅月さまの描かれる絵がおかしな絵だとか、そういうことではないのです! そうではなくて、あの……その」
不思議な、などと素直に印象を語ってしまったことを梔子は後悔した。
奇妙だとか、変だとか、人によってはそういうふうに捉えかねない形容詞だ。
(私、何の考えもなしに……。紅月さま、気を悪くしたかしら……?)
けれど紅月は特に気分を損ねたような様子もなかった。
それどころか、赤くなって口をつぐんだ梔子を見て、くつくつと笑っている。
居たたまれなくなって、梔子は思わず声を上げた。
声色には、わずかに抗議の含みが滲んでしまう。
「あ、あの。紅月さま……?」
「ああ、すまない。貴女があまりに愛らしかったものだから、つい笑ってしまった。貴女は本当に可愛い人だね」
「…………っ!」
いよいよ真っ赤になって、梔子は顔を上げられなくなる。
(可愛い、だなんて。この方はいつも……)
紅月はこんなふうに、時おり梔子をからかって面白がることがあった。
褒めて、甘やかして。
そのたびに梔子が恥ずかしがったり、狼狽えたりするのを見て、彼はおかしそうに笑うのだ。
褒められるのも甘やかされるのも、梔子は慣れていない。
それを、紅月は知っているはずなのに。