終.初恋の記憶 ―3
「……来ないわね、紅月」
それからしばらく経って、懐中から時計を取り出し、首を傾げたのはリリアーヌだ。
彼女は少しの間考え込むような表情を見せたかと思うと、やがて悪巧みをする子どものような顔になって琳也の方を向いた。
「……ねえ琳也くん。ただ待っているのも、つまらないし。何か面白い話はない? たとえば、静貴の意外な弱点とか」
「え? 静貴さんの弱点ですか? そりゃいっぱいありますよ! あ、篁夫人も一緒に聞いてくださいよ。たとえば、嫌いな食べ物はですね……」
「わ……っ」
琳也に引っ張られ、肩に手を回されて、梔子は思わず声を上げた。
彼とリリアーヌと三人で密着し、内緒話をするような格好だ。
けれど、得意げに話し始めた琳也の言葉は長くは続かない。
「琳也。きみはさっきから、黙って聞いていればいい加減に――」
そんな静貴の声が聞こえたのと、ほぼ同時に。
「あ――」
急に後ろから引き寄せられ、梔子は内緒話の輪の中から離される。
顔を見なくても、触れられただけでわかる。
後ろから片腕で抱きしめられた状態で、梔子は彼の名を呼んだ。
「こ、紅月さま……」
「やあ。きみは確か、藤枝くんと言ったかな。私の妻にいったい何の用だろう?」
その声も、言葉も、表面上はにこやかだ。
けれどよくよく聞いてみると、その声には明らかに、聞く者をぞくりとさせるような響きがあって。
「……痛っ。いったぁ! こ、紅月さん、痛いですよ! いきなり何なんですかぁ!」
見れば、梔子を抱きしめながら、紅月は左手で琳也の首根っこを掴んでいた。まるで、悪戯好きの猫の首根っこでも掴むかのように。
どうやら相当力がこもっているらしく、琳也は苦悶の表情を浮かべながら紅月に抗議をぶつけてくる。
しかし紅月はその訴えに耳を傾ける気はないらしく、飄々とした態度を崩さない。
「聞き慣れた声がすると思ったら、ずいぶん気安く妻に触れている男がいるのが見えてね。いったい彼女に、どんな話を聞かせようとしていたのかな。私も実に興味があるのだが」
「ご、誤解ですよぉ。今のは、だって、リリアーヌさんも一緒だったんですよ!? 俺は何も悪いことなんか――」
「琳也くん。他人に自分の罪を着せるのはよくないわ。たぶん、ちょっとした出来心だったのよね? あなたも、わたしと同じように梔子と仲良くしたくなって、ついつい……」
「痛い痛い痛いっ! 紅月さん、痛いですってば! もうしませんから、そろそろ勘弁してくださいよぉ! し、静貴さん、お願いします! どうか俺を助けてください……!」
「……誰がきみなど助けるか。紅月、容赦してやる必要はない。しばらくそうして痛い目に遭わせなければ、こいつはいっこうに学ばんからな」
「そうか、静貴。なら、お前の部下相手に、遠慮は一切要らないということだね」
「え、ええっ!? そ、そんなぁ~~……!」
……それからしばらくして。
ようやく紅月に解放してもらった琳也は、すっかり涙目になっていた。
「あ、あの。藤枝さま。大丈夫ですか……?」
「梔子さん。そいつには一切構うことはない。自業自得だからな」
「うう……静貴さんが冷たい。それに、紅月さんだって、いくら何でも容赦なさすぎますよ。紅月さんって、実はものすごく嫉妬深かったんですね……」
「そうだな。否定はできないな。我が妻は美しく、心優しい女性だ。妙な男が寄ってこないよう、常に気を配っていなくては」
「……恐い。静貴さん……。今日の紅月さんは、異常なくらいに恐いです……!」
「……そろそろ懲りたか。今日はもうそのくらいにしてやってくれ、紅月。悪気はなかったのだ」
「……仕方がないな」
ため息を一つつき、紅月は肩をすくめた。
それから、改めて周囲を見回して言う。
「……それで、これはいったい何の集まりなのかな。見たところずいぶん盛り上がっていたようだが」
「そんなの、決まっているでしょ? みんな、紅月が来るのを首を長くして待っていたのよ。ずいぶん待たされていたんだから」
「私を……?」
茶目っ気たっぷりに言ったリリアーヌに、紅月は驚いた顔を見せる。
梔子は横から紅月に教えた。
「紅月さまの右手のことを、皆さんにもお伝えしたのです。手術が成功して、経過も順調だと……」
「おめでとう、紅月。本当によかったわ。今だから笑い話にできるけれど、この前の冬なんか、どうなることかと思ったもの」
「ほんとですよね~。今の紅月さんがあるのはここにいるみんなのおかげなのに、紅月さんってば、なんかそっけないんですから。もっと俺達に感謝してくれてもいいんですよ?」
「琳也。きみは特に何もしていないどころか、逆に足を引っ張っていただろうが。なぜきみが一番得意げなのだ?」
またしても始まった賑やかなやり取りに、梔子も思わず声を上げて笑わずにいられない。
過ぎ去った冬のことを持ち出されると頭が上がらないのだろう。
紅月はしばらくの間、黙って琳也に言われるがままになっていたが、やがて言った。
「……そうだな。それは、藤枝くんの言う通りだ。私がこうして今も画業を続けていられるのは、ここにいる皆のおかげだ。だから……ありがとう。これで足りなければ、何度だって感謝するさ」
「ふん。感謝など聞き飽きたぞ。僕は早いところ、きみが完全復活してくれればそれで構わん。それは別に僕だけではなく、ここにいる皆が同じ考えではないのか?」
「あらあら。静貴ったら照れちゃって。ねえ紅月。静貴って、けっこう照れ屋よね? 照れ隠しなんかしちゃって、素直じゃないんだから」
「うるさいぞ、リリアーヌ。きみと言い、琳也と言い、さっきからなぜ僕ばかりいじるのだ!?」
「それだけお前にいじりがいがあるからだよ、静貴。……やれやれ、この顔ぶれが集まると、いつも騒々しいな」
そう言って梔子に目を向けてきた紅月は、口では不満を漏らしながらも、穏やかな表情をしていた。
「……そうですね。本当に」
つい、紅月と視線を交わして笑ってしまう。
……楽しい。
もし、時間が許してくれるのなら、まだもう少し、こうして皆と集まって話していたい。
そんなことを思っていると、それは梔子だけの考えではなかったのか、誘いを持ちかけてきたのは静貴だ。
「そうだ、この際だ。紅月の手が治った祝いをしなければな。さっそくだが今晩あたりどうだ? きみ達の予定はどうかね」
「あら、いいじゃない、静貴。みんなの予定が合う時なんて、なかなかないものね。ぜひわたしも参加させていただきたいわ」
「いいですね! 俺も俺も!」
「いや、待ってくれ。なぜ私抜きで勝手に話を進めているのかな。そもそも私の手はまだ治ったわけではないし、それに今夜は梔子と……」
紅月だけは苦い反応を示したが、もはや誰も紅月の言葉を聞いてはおらず。
見かねて、梔子は紅月にそっと耳打ちをする。
「紅月さま。よいではありませんか。みんな、あなたのことをお祝いしたいのですよ。それに、私も……久しぶりに、皆さんとお話ししたいですし」
「梔子。まさか、貴女まで……」
紅月は一瞬、裏切られたとでも言うように愕然とした表情を見せたが、やがて観念したのだろう。肩を落とし、閉口する。
こうしてこの日は、急遽、祝いの席が設けられることになり――