終.初恋の記憶 ―2
「ああ、ここにいたか。おはよう、梔子さん。さっそく見学させてもらったよ」
「静貴さま。おはようございます」
やがて、梔子を中心とした集まりに静貴も加わった。
梔子は彼に向き直り、頭を下げた。
「来てくださってありがとうございます。静貴さまが支援してくださったおかげで今日を迎えられたと、主人も申しておりました」
「そうか。見たところ、想像以上に盛況じゃないか。こうまで満員御礼とは、援助させてもらった甲斐があるというものだ。……それにしても、主人、か。きみはもう、すっかりあの男の奥方だな」
「…………!」
愉快そうな笑みを浮かべて言った静貴に、梔子は思いがけず頬が染まってしまうのを感じる。
春。桜の美しい季節に祝言を挙げてから、早くも半年が経とうとしている。
それでもまだ、他人から篁夫人と呼ばれたり、紅月の妻となったことを自覚させられる出来事があると、今のようにどきりとして、こそばゆい気持ちにならずにいられないのだった。
「最近、奴はどうしている? もうそろそろ、再手術から二か月経った頃だと思うのだが」
「はい。おかげさまで、以前より指に力が入るようになったと……。お医者さまも、このまま順調に回復していけば、時がかかったとしてももとのように手を使えるようになると仰っていました」
「何? それは本当か……!」
驚いた様子を見せた静貴に、梔子は頷く。
今、改めて思い返すのは、紅月に向け、かつて静貴が投げかけていた言葉だった。
『言っておくが、僕はあきらめていないぞ。画家・篁紅月はこんなところで終わるような小物ではないだろう?』
――あきらめていない。
静貴はその言葉を行動で示してくれた。
紅月の手を治せるという医者を、彼が本当に見つけ出してくれたのはこの夏のこと。
医学発展のために政府が外つ国から招聘した医者で、折よく静貴が交渉し、手術の約束を取りつけてくれたのだ。
(静貴さまは、たくさん苦労なさっていたことを、ご自身では何も仰らないけれど……)
以前、たまたま街で琳也に会ったことがあり、その時に話を聞かされていた。
はじめは手当たり次第に医者を探していた静貴だったが、何度も断られることが続いたのち、やがて国内ばかりでなく、外つ国の医術に目を向けるようになったのだという。
あらゆる情報を手に入れるために、国内外を問わず最新の医学研究誌を集め、難解な医学学会の資料を自ら読み込んでまで――
(……本当に、静貴さまにはどれだけよくしていただいたことだろう)
そうして、紅月は再び手術を受けることになった。
それは国内では初めての治療法で、後学のため、手術には何人もの高名な医者達が立ち会ったのだという。
その中には、以前、梔子を助けてくれた医者である倉岡尚史の姿もあった。
手術後の治療を引き継いでくれたのも尚史で、現在、紅月は定期的に彼のもとを訪れ、経過を診てもらっている最中だ。
その尚史に、経過が順調であること、そして、地道に訓練を続ければ以前のように右手を動かすことができるようになると告げられたのは、つい昨日のこと。
尚史から受けた説明をそのまま伝えると、静貴はしばらくの間、呆然として言葉を失っていた。
けれどやがて、顔いっぱいに喜色を浮かべて声を弾ませる。
「そうか。ならば、よかった……!」
「梔子、その話、本当!? 紅月の手が治るって……!」
「えっ、お医者さんがそう言ってたんですか!? うわあ、よかったあ! 静貴さんの努力、ようやく実ったんですね! 何せ、ここだけの話ですけど……静貴さんときたら、普段は神頼みなんか絶対しないのに、手術の前なんか何度も神社に行って手を合わせてたりして――」
「う、うるさいっ! 琳也! その話は絶対に口外するなと言っておいただろうが! しかも僕本人を前にして、ここだけの話とはなんだ!?」
「そんなぁ。いいじゃないですかぁ、静貴さん! それだけ静貴さんが義理人情に厚くて、友達思いのいい男だっていうことで!」
顔を赤らめて怒り出した静貴に、どっと笑い声が上がる。
リリアーヌが尋ねてきたのは、それからしばらくして、やっと笑いが収まってきた頃のことだった。
「そういえば、梔子。肝心の紅月が来ないじゃない。どこにいるの?」
「ついさっき、旧知の方がお見えになったみたいで、少し話をしてくると言っていたの。ただ、もうそろそろ戻ってもよい頃だと思うのだけど……」
せっかくみんなで集まることができたのだ。
この輪の中に、紅月にも加わってもらいたいと思った。