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終.初恋の記憶 ―1


「あ、いたいた! 夫人ー! (たかむら)夫人!」


背後から声をかけられたのは、展示されている絵の説明を求められ、一区切りをつけた時のことだった。


振り返れば、そこに立っていたのは見知った顔の人物だ。

子犬を思わせるような好奇心に満ち満ちた目に、人懐っこそうな明るい表情。


梔子(くちなし)は笑みを浮かべ、挨拶をした。


藤枝(ふじえだ)さま。おはようございます。来てくださっていたのですね」

「いやだなあ、俺のことは琳也(りんや)でいいって、前から言っているじゃありませんか! 今日は、静貴(しずき)さんも来てるんですよ。そのうち夫人のところにも顔を出してくれると思いますので!」


藤枝琳也。

彼は静貴のもとで働いている青年だった。


初めて会ったのは、今年の春。祝言の席でのことだ。


どうやら静貴からたびたび話を聞かされていて、梔子や紅月(こうげつ)のことを気にかけてくれていたらしい。


祝いの宴会の時は、梔子と紅月が夫婦となったことを大いに喜んでくれていたものだ。


それにしても、と言いながら、琳也はあたりをぐるりと見渡した。


――ここは、最近帝都にできたばかりの新しい美術館。

人気画家、篁紅月が利き手の自由を失ってから初めて開いた展覧会とあって、朝から美術館にはひっきりなしに人々が訪れていた。


飾られているのは、誰もが見たことのない、新しい方法で表現された絵ばかりだ。


琳也は目を輝かせ、幼子のように無邪気な声で言う。


「ほんと、すごいですよね……。俺、ここにあるような絵は初めて見ました。誰も思いつかないし、あの人じゃなかったら、こんなことできませんよ! まさか、小さくちぎった紙で、あんな綺麗な絵が作れるだなんて……」


          *


――梔子が思い出すのは、まだ祝言を挙げる前。今年の三月のこと。

怪我が癒え、体力を取り戻した紅月は、いつまでもじっと手をこまねいてはいなかった。


「これからどうやって描いていくかは、少し……考えついたことがあるんだ」

「考えついたこと……ですか?」

「ああ。もちろん、以前のように描くことをあきらめたわけではないが、一つ、試してみたいことがあるんだ。おそらく、まだ誰も試したことのない方法だと思う。うまくいくかどうかは……わからないが」


梔子をまっすぐに見て、少し緊張した面持ちで彼が続けた言葉に、思わず胸がどきどきしたのを忘れられない。


「その時は、貴女(あなた)にも手伝ってもらいたいんだ。……いいかな?」

「もちろんです。私がお手伝いしてもよいのでしたら」


迷うことなく頷きながら、頭の中は疑問でいっぱいだった。


紅月が絵を描く手伝いをさせてもらえるのは、とても嬉しい。

今までずっと、彼がどんなに忙しくしていても、梔子にはほとんど何も手伝うことができなかったからだ。


けれど。


(どんなことをお手伝いしたらいいのかしら)


紅月の役に立てるという喜びが半分。

彼の手伝いが自分に務まるだろうかという心配が、もう半分。


そして、梔子に任されたのが……


          *


「あっ、やっと見つけたわ! 梔子!」

「リリィ……?」


少し経った頃、梔子を見つけ、手を振りながら駆け寄ってきたのはリリアーヌだ。


リリアーヌはそのまま近づいてくると、梔子を抱きしめて頬にちゅっとキスをしてくる。

梔子も同じように、リリアーヌの両頬にキスをした。


最初は戸惑った仏蘭西(フランス)流の挨拶だけれど、今ではもうすっかり慣れて、彼女と会うたびにこうして挨拶をするのはいつものことだ。


「久しぶりね、梔子。元気そうでよかったわ! 今日はここに来れば二人で作った絵が見られるっていうから、お店を閉めてみんなで来たのよ」


――二人で。

そう言ったリリアーヌに、梔子は首を横に振って答える。


「いいえ。私がしているのは、お手伝いだけで……描いているのは、紅月さまだわ」

「そんなことないでしょう? 聞いているわよ。ここにある絵って、小さくちぎった紙を貼って作るんでしょう? 紙をちぎっているのは梔子で、細かいところに紙を貼る作業も、あなたが紅月の代わりにやっているって聞いたわ」

「いいえ、そんな」


梔子が恐縮しかけるのを見て取ったか、琳也もリリアーヌに加勢してくる。


「リリアーヌさんの言う通りですよ、篁夫人。あなたと共同制作しているんだって、前にお会いした時、紅月さんも言っていましたよ?」

「それは……。でも、私は紅月さまが指示してくださった通りにしているだけですから」


確かに、琳也の言った通りではあった。


今、ここに展示されている絵は、紅月が梔子と共同で制作したものだと知らされている。


……ここにある絵は、妻がいなければ、一つとして完成できなかったものだから。


紅月のそんな強い主張で、どの絵にも、彼に並んで、梔子の名が記されているからだ。


――ちぎり絵。

それが、利き手を使えない間、紅月が携わることに決めた、新しい絵画の手法だった。


絵の具で描くのではなく、色のついた和紙を小さくちぎり、それを貼っていくことで、一つの絵として仕上げていく。


中には和紙ではなく、新聞紙や雑誌の(ページ)をちぎって使った作品もあり、近くで絵を見た観覧客は皆驚いているようだった。


作品の題材は、さまざまだ。

野に咲いた花や、季節の果物。旅先で見た大海原。


題材は紅月が決めることが多かったけれど、梔子が思いついたものもある。

ひとたび絵を作ると決めたら、おもに梔子が和紙をちぎり、紅月がおおまかに下絵を描いた。


彼が言うには、利き手でない左手を使って下絵を描くのにも以前より慣れてきたらしい。

近頃は風景画のような、より細かな下書きが必要なちぎり絵も作れるようになってきていた。


下絵に添ってちぎった紙を貼っていくのもまた紅月だが、特に細かい作業が必要なところは、彼の指示に従いながら梔子が行うことも多かった。


一つの絵を二人で作っていくのは、想像以上に楽しくて。

半年も経ってみれば、いつの間にか作品は数十点にも及ぶものになっていた。


美術館側からの依頼もあって、この秋、紅月はちぎり絵を主題にしたものとしては初めての展覧会を開かせてもらえることになったのだった。



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