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十七.婚礼の日 ―求婚― ―8


その夜遅く。

梔子は紅月の部屋にいた。

彼の傷の手当てをするためだ。


改めて確認させてもらうと、やはり紅月の身体は傷だらけだった。

完全に癒える前に治療をやめたせいか、年末に彼が負った怪我は治りきっておらず、じくじくと膿んでいたり、赤く腫れあがっていたり、痛々しい傷がいくつもあった。


そればかりではなく、最近できたばかりだと思われる裂傷や打撲も数えきれない。


自分で手当てをすると言い張る紅月を無視し、梔子は一つ一つの傷を消毒し、軟膏を塗って手当てをしていく。


ただでさえ、自分自身のこととなるとないがしろにする傾向のある紅月のことだ。

彼に任せていたら、きちんと手当てをしてくれるか、とても怪しかった。


申し訳なさそうに、紅月は何度も言ってくる。


「梔子……。もう大丈夫だよ。残りは自分でできる。汚い傷ばかりなんだ。貴女の手が汚れてしまう」

「薬はしみませんか。痛みを感じるようでしたら、すぐに言ってください」


その瞬間、思わず目を瞬く。

……いつかどこかで、聞いたことのあるやり取りだ。


『も……もう、大丈夫です。紅月さまの手が、血で汚れてしまいますから』

『薬はしみないかい? 痛くなったら、すぐに言うんだよ』


やがて思い出したのは、紅月と婚約したばかりの頃、彼が梔子の傷を手当てしてくれた時の会話だった。


紅月も気がついたのだろう。

苦く笑って言ってくる。


「……立場が、逆になってしまったな」

「そうですね」


梔子も思わずかすかに微笑んだ。


……今、これまでのことを振り返ってみれば。


(私と紅月さまは、もう何年も前から、こうして……)


互いに互いを癒し、救い合っていたのだと思い至る。


どちらかが傷だらけになり、暗闇の中で動けなくなっていたら、その傷を癒し、手を取って。光の差す方向へと導いて。


互いの存在がなければ、こんなに幸せな今はなかった。

こうして生きていることすら、難しかったことだろう。


するとふいに、鑷子(ピンセット)を持つ梔子の手を、紅月が掴み取ってきた。


「紅月さま……?」

「貴女の手。……傷跡だらけだ」

「あ……」


手を確認するだけでは足りなかったのか。

紅月は袖をそっとめくって、苦しそうな顔で、梔子の腕を見つめてくる。


腕には、八條家で虐げられていた頃の傷跡が、今もはっきりと見て取れるほどに残っていた。


梔子は首を横に振った。


生きたまま地獄で過ごしていたかのようなかつての日々を、梔子は一生、忘れることなどできないだろう。


それでも。


「昔の傷です。今はもう、少しも痛くありません」

「だが、その傷は……もう」

「はい。おそらく、一生消えることはない傷です。けれど……それは、あなただって同じではありませんか?」


今、目の前にしている紅月の身体にも、無数の傷がある。


傷だらけなのは、お互いさまだ。

何度も、何度も、傷つけられ、絶望した。

光に焦がれて手を伸ばしては、また暗闇に突き落とされ、あがいて、もがいて。

一人では、立ち上がることも、歩き出すこともできなかった。


今があるのは、傷を負いながらも、互いの存在があったから。

互いに手を差し伸べ、支え合ってきたからこそだ。


過去は、消えない。

けれど、傷だらけになりながらも二人で掴み取った今この瞬間の幸せを、梔子は大事にしていきたいと思う。


「梔子」


時間をかけて治療を終えた後、紅月が改まった声で名を呼んできた。


彼はゆっくりと、手を持ち上げた。

つい今しがた軟膏を塗り終え、包帯を巻いて治療を終えたばかりの右手だ。


彼はそっと、包帯に覆われた右手で、梔子の頬を撫でてくる。

頬を撫でてくる手の動きは、ぎこちなくて。

それでも、その手はあまりに温かく、優しくて、梔子は目を閉じ、その手に頬をすり寄せる。


やがて紅月は、眉尻を下げて微笑み、苦しげに言った。


「……わかっただろう。私はこの通り、利き手をまったく使えなくなってしまった。訓練すれば、また使えるようになるかもしれないが……おそらく、気の遠くなるような時間がかかる。その間、以前のように描くことは不可能だろう。これから貴女に、どれほど迷惑をかけるかわからない」

「迷惑になど、思うわけがありません。それに……その傷は、私を守るために……」


もとはといえば、紅月が利き手に怪我を負ったのは、梔子を守るためなのだ。

だから、何があろうと、梔子は紅月を支え続けていくと決めている。

彼のことを迷惑だなどと、思うわけがなかった。


梔子が罪悪感に苦しんでいると思ったのかもしれない。

紅月はきっぱりとした声で言った。


「……梔子。私は、前にも言っていたと思うが……確かに、利き手を潰したのは私にとって大きな痛手だった。だがあの時は、そうすることで貴女を助けることができたんだ。この数週間、ずっと貴女を苦しませて……その上、これからも貴女に迷惑をかける身で、言えたことではないのかもしれないが……。私は怪我をすることになったのを、少しも後悔していないんだよ」

「紅月さま……」

「だから、今も自分を責めているのなら、これからはもうやめてほしい。私はあの時、貴女を守ることができてよかったと、心からそう思っているのだから」


その言葉は、あまりにも強く、まっすぐで。

胸を衝かれ、やがて込み上げてきた想いに、梔子はしばらくの間、何も言えなくなってしまう。


「……お支えします」


紅月の手の上に自分の手を重ね、梔子は言った。


「これから何があろうと、いつまでも……私はあなたをお支えします。どうか、私を……あなたの妻として、あなたの利き手として、そばに置いていただけますか」

「梔子……」


彼の瞳が揺れたかと思うと、その瞬間、強く抱きしめられる。

もう二度と、離さないとでも言うように。

それが、梔子の願いに紅月がくれた答えだった。


「ありがとう……なんて、何度言い尽くしても足りないな」


目を合わせると、彼は微笑む。

つられるようにして、いつしか梔子も笑っていた。


抗いがたい力に引き寄せられるように、唇を重ね合わせる。

何日も待ち焦がれた口づけは、胸が苦しくなるほどに甘く、熱く感じて。

淡く触れ合うだけでは、到底足りない。

衝動に突き動かされるまま、抱きしめて。頬に触れて。深くまで口づけて。


やがて満ちた、胸に収まりきらないほどの幸福は、涙となって零れ落ちていった。

今は、ただひたすら、何日もの間焦がれ続けたこの温もりに、身も心も浸っていたい。


梔子、と。

口づけの合間に、彼が名を呼んでくる。


「貴女が好きだ。……大好きだ」


何としても伝えずにはいられない。

切なげな響きさえ帯びたその声に、どうしようもなく胸が震えた。


「……はい」


頷いて、それから、温かな胸に頭をもたせかける。

衣越しに伝わってくる熱も、聞こえてくる心音も、何もかもが愛おしくてたまらなかった。


「はい。私も……あなたのことが、大好きです。もう、二度と。どこにも行かないでくださいね」


飽くことなく、互いを抱きしめ、唇を重ねた。

言葉では到底伝えきれないこの想いが、紅月に伝わりますように。

そう願いながら。


甘く、優しい熱を帯びた夜の闇に、梔子はそっと、身を委ねていった。




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