十七.婚礼の日 ―求婚― ―6
*
……その日の夜。
梔子はようやく、紅月とともに屋敷への帰途についていた。
屋敷まで車で送ってくれているのは静貴だ。
梔子と同じように、静貴も婚礼衣装を脱ぎ、すっかりいつもの服装だった。
「やれやれ……。梔子さん。どこかの誰かの、単なる馬鹿を通り越し、馬鹿を極め切った、理解の範疇を超えた馬鹿者しか考えられない突飛な行動に、我々は本当にとんでもない目に遭わされたたものだな。そうは思わんかね」
「し、静貴さま」
車に乗り込んでからというもの、静貴はさんざんに紅月を罵り続けていた。
しかし口では手厳しく罵倒しながら、静貴の声はいつになく上機嫌だ。
一方で、常なら不服そうに切り返しただろう紅月は、今日ばかりは口を引き結んで耐えている。
「…………」
「ん? 不満そうな顔ばかりしていないで、何か言い返したらどうなのだね、紅月? 先ほどから、不気味なくらいに落ち着きすぎているようだが」
「……言い返す言葉などないよ。お前の言う通りだ、静貴。私が愚かだった。事実なのだから、下手に言い返したところで余計に惨めになるだけだろう?」
「ほう。いつになく殊勝なことだな。梔子さんと離れている間に悪いものでも食べたか?」
「紅月さま。ずっとお尋ねしたかったのですが、お屋敷を出て行かれてから、あなたはどこで……?」
静貴との結婚式――もとい、紅月を捜し出すための大芝居を終えてからというもの。
あれから、式場に詰めかけていた大勢の人々に説明をしたり、雪崩を打つように押し寄せた記者達に対応したりと、式場を出るだけでも一苦労だった。
藤川邸に戻り、やっと着替えができたのは、ほんのついさっきのことだ。
一刻も早く紅月と話がしたくても、そんな時間はまったくなく。
……車窓の外は、もうすっかり真っ暗だ。
強まる寒さが身に堪えたのか、紅月は静貴から譲り受けた外套をかき寄せながら答えた。
「あの後は……そうだな。適当に、街を歩いて過ごしていたよ」
「で、そのありさまというわけか。自暴自棄もここに極まれりと言ったところだな。病み上がりの身で、よくもまあこんな真冬に何日も外で過ごせたものだ。まったく恐れ入る」
――「外で」。
静貴の言葉に、胸が痛くなる。
紅月はほとんど何も持たず、身一つで屋敷を出て行った。
それからずっと、彼は街をさまよい歩いて過ごしていたのだという。
寒風を凌ぐこともできない路上で、食べ物もほとんど口にすることもなく――
今の彼の、痩せて傷だらけの身体や、擦り切れてぼろぼろになった衣服が、それを何よりも如実に物語っていた。
そう思うと、自然と言葉が口をついて出てしまう。
「よかった……」
「梔子……?」
すると、不思議そうに紅月が視線を向けてくる。
梔子はその眼差しに気づき、言葉をつけ足した。
「よかった、と……そう思ったのです。もし、今日、あなたを見つけ出すことができていなかったらと思うと……」
今も、紅月は弱った身体で、何も口にすることなく外で過ごし続けていたのだろう。
けれど、これでやっと、彼とともに屋敷に帰ることができるのだ。
屋敷に着いたら、梔子がやるべきことは山ほどあった。
まずは湯たんぽを用意し、炬燵に炭を入れて、紅月に温かくしていてもらわなければ。
その間に、急ぎで何か温かいものを作って。お風呂も沸かして。
そんなことを考えていると、静貴が言った。
「まあ、つまりは、一世一代の賭けに出た甲斐があったというわけだな。ああ、紅月。ちなみに、今日の案を考えてくれたのはリリアーヌだ。きみが行方をくらましてからひと月弱……早くも梔子さんが僕と結婚するとなれば、自分がいかに愚かな決断をしたか、きみは思い知ることになるだろう。僕と梔子さんの婚姻を止めるため、必ず式場に姿を現すはずだと……僕達はそう考えたのだよ」
「……ずいぶん、私の考えも行動も、読まれていたものだね」
「それはそうだ。僕が何年、きみの面倒を見てきたと思っている?」
――一日も早く、確実に紅月を見つけ出すための、リリアーヌの策。
それが、梔子と静貴が公衆の面前で結婚式を挙げる、というものだった。
必ず紅月の耳に入るよう、静貴にいくつもの新聞社に働きかけてもらい、号外を出した。
期日を定め、大急ぎで結婚式の準備をして……
むろん、すべては紅月と再び会って話すための芝居であって、本当に静貴と結婚するわけではない。
万が一にも芝居だと知られないようにするため、この結婚式の真の目的を知る者は、実行者である梔子や静貴、リリアーヌの他、藤川家のごく一部の人間に限られていた。
……とは、いえ。
(本当に……紅月さまが来てくださって、よかった)
紅月を信じると誓った。
梔子が紅月と生きていきたいと思っているように、本当は彼だって、梔子とともにいたいと願ってくれている。
そんな本当の思いに、彼は気がついてくれるはずだと。
それでも、実際に式場で彼の姿を見るまで、不安は最後まで消えなかったのだ。
けれど、静貴が得意げな表情を浮かべるのとは裏腹に、紅月が見せたのは自嘲の滲んだ笑みだった。