十七.婚礼の日 ―求婚― ―5
*
冬の式場を包むのは、楽団の壮麗な音楽。
そして、この場に集った大観衆から送られる、尽きることのない温かな歓声だった。
その中央を、静貴とともに歩きながら。
微笑みを浮かべ、今日の主役を、幸せに満ち溢れた花嫁を演じながら。
梔子はただひたすらに、その時の訪れだけを待ち続けていた。
(……紅月さま)
長い、長い絨毯の道は、もうじきに終わろうとしていた。
祭壇はもう目の前だ。
冬の日差しを帯びて、婚礼の鐘が金色に輝いている。
(私は、信じています。あなたが来てくださることを。だから、どうか……)
そして。
静貴に伴われ、まもなく祭壇の前にたどり着こうとする――その時。
「下がれ! 貴様、下がらないと打つぞ!」
楽団の奏でる祝福の音色に混じり、どこからか聞こえてきたのは喧騒と怒鳴り声だった。
儀礼の場には到底似つかわしくない騒ぎに、その周囲にはどよめきが走る。
はっとして、梔子は歩みを緩めた。
思わず静貴を見上げれば、彼は梔子を見つめ返し、かすかに頷いてくる。
静貴が立ち止まるのに合わせ、梔子もその場に止まった。
すっ、と静貴がおもむろに片手を上げる。
その瞬間、楽団の演奏が止み、群衆に広がるのは戸惑いの空気だ。
騒ぎのあった方向を振り返ると、静貴はすっと目を細めた。
その先に、見たものに。
「…………!」
息が詰まった。身体が震えた。
なりふり構わずに駆け出しそうになった梔子を、けれどすかさず制したのは静貴だった。
「そこの警備員。その男を解放してやってくれないか」
ざわめきの中でも静貴の声は驚くほどによく通る。
警棒を振り上げていた警備員達は、唖然とした様子で静貴を凝視していた。
「は……? ふ、藤川殿。いったいなぜ」
「いいから。早くしたまえ」
するとようやく、警備員らは取り押さえていた男から手を放す。
それでもなお、何かあればすぐに男を抑え込めるように、彼らは警戒を解いていない。
広がるのは――沈黙。
解放されたのは、見るも無残な姿をした男だった。
だからこそ。
不快そうに眉をしかめ、静貴が口にした名に、あたりはつかの間騒然となる。
「無様なものだな、篁紅月。きみはここへ、いったい何をしに現れたのだ?」
「…………」
紅月を見下ろす静貴の眼差しには侮蔑がこもっている。
紅月から返事はなかった。
肩をすくめた静貴は、なおも追及をやめようとはしない。
ついにはあざ笑うような表情を浮かべ、挑発するように紅月を問いただす。
「……まさかな。まさかその惨めななりで、今さら梔子さんを返せとでも言いに来たのではないだろうな? そもそも、身勝手に彼女を捨てたのはきみだろう? まあ、仕方があるまいな。きみはもともと、腑抜けだったのだ。利き手が使えなくなった? ……はっ。それくらいのことで、きみは彼女を放り出し、無様にも尻尾をまいて逃げたのだからな!」
刹那、あたりは大きくどよめく。
地面に這いつくばっていた紅月が、静貴に掴みかかったからだ。
警備員らが一斉に駆け寄ろうとしたが、彼らの動きは、静貴の一喝によって押し止められる。
「僕達に構うな! ……いいか、紅月!!」
どっ、と。
鈍く激しい音が鳴る。
静貴が思いきり紅月の顔を殴りつけていた。
周囲にはまたしても騒ぎが沸き起こる。
衝撃に耐えきれず後ろから倒れ込んだ紅月に、しかし静貴は一切容赦しなかった。
倒れた紅月の胸ぐらを掴んで引き起こすと、静貴は苛烈な怒りをはらんだ声で、紅月へと畳み掛ける。
「きみは、なぜ僕がここまで怒っているかがわかるか? きみがあまりにも愚かだからだ!! この数週間、きみの独りよがりな行動のせいで、梔子さんがどれだけ苦しんだと思っている!?」
「静貴さま! やめてください、お願いです! もう――」
「いいや、梔子さん! 悪いがもう少しだけ言わせてくれ! ……紅月! 僕にはまったく理解できない! なぜきみは、いつもそうして一人だけで抱え込む? なぜきみは、梔子さんの思いに少しも気づこうとしないのだ!? 梔子さんは、苦難に遭っても変わらずにきみを支えようとしていた。にもかかわらず……! 彼女の思いを踏みにじるのは、いい加減にしろ! 彼女は、きみの苦しみをともに分かち合って生きたいと、そう願っていたのだぞ……!」
それは、無秩序に騒いでいた群衆を黙らせるほどの剣幕だった。
呆然として沈黙を保つ群衆の前で、静貴の声が再び響く。
「……紅月。きみの存在なくして、梔子さんが幸せになれると。きみは本当にそう思うのか?」
すでに静貴の顔からは、蔑みの色など跡形もなく消え失せていた。
ただただ、彼は愚直に、強い眼差しで紅月に問いかけ続ける。
「立て、紅月。今度こそ、きちんと梔子さんと話すのだ。彼女はあれから、ずっときみを待ち続けていた。きみを誰より信じ続けたのは、きみが愛する彼女なのだから」
しん、と。
あたりは静まり返ったままだった。
梔子だけではない。
今や、集まった人々の視線は、倒れ込んだ紅月へと向けられている。
そして。
長い、長い、沈黙の末に。
ようやく、紅月が身を起こそうと地に手をつく。
途端によろめき、倒れそうになった紅月に、静貴は肩を貸して横から支えた。
そうして、力づけるようにして背を叩きながら立たせると、静かに身を放し、自分は邪魔にならないようにと後ろへと下がった。
……いったいどれほど、この時を待ち続けていたことだろう。
「……紅月さま」
もうずっと長い間、梔子は待った。待ち続けた。
……もう、我慢する必要などない。
目の縁が、火のついたように熱くなる。
溢れてきたもので視界が歪むよりも早く、梔子は駆け出し、思いきり紅月を抱きしめた。
「あなたは、馬鹿です……!」
責め立てる言葉を抑えることはできなかった。
紅月に何かを言う暇すら与えず、梔子は畳みかける。
「なぜ、私に一言も言わず、一人で出て行ってしまわれたのですか? 私は……私は、あなたとの離縁を認めた覚えなど、一度だってありません! なのに、どうして……どうして、あなたは……!」
「…………」
紅月に問いただしたいことは、山ほどあった。
今までずっと、どこにいたのか。
どうやって過ごしていたのか。
どうして彼は、こんなにも痩せて汚れた、ぼろぼろの姿で現れたのか。
……今、梔子がこうして紅月と再会できたのは、静貴やリリアーヌのおかげだ。
彼らがいなければ、梔子はきっと、永遠に彼と会うことはできなかった。
もし、ずっと再会できないままだったとしたら、彼はいったいどうやって生きていくつもりだったのか――
けれど、数えきれないほどあった問いは、込み上げてきた想いのあまりの熱さに、喉の奥で霧散してしまう。
やがて、唇から零れたのは、
「……会いたかった」
ただ、その一言だけだった。
「会いたかったです。ずっと、ずっと……私は、あなたに会いたかった。紅月さま。あなたは……違いましたか?」
「――……っ」
やっと紅月が抱きしめ返してくれたのは、その時だった。
息苦しくなるほどに、強く、深く。
彼は梔子を掻き抱き、血を吐くような声で告げてくる。
「……違わない」
「…………!」
「……違うわけが、ないだろう。本当は……、本当は、貴女と離れたくなど、なかった。貴女と離れている間は、今にも気が狂いそうだった。貴女にもう二度と会えないと思い知らされるたび……何度死のうと思ったか、わからないほどだった……!」
はた、はた、と肩に落ちてくるのは涙だった。
紅月も今、梔子と同じように泣いているのだと、雨のようにとめどない涙が伝えてくる。
「……梔子。私は……能無しだ」
「能無し、などと。ご自分を蔑むのはおやめになるようにと……私はあなたに、伝えたはずです……!」
「だが……本当のことだ。私は、もう二度と、以前のように描くことはできないかもしれない。貴女にきっと、苦労ばかりかけてしまう。それでも……貴女と離れて過ごすのは、もう嫌だ。……嫌なんだ」
震える声で、彼は言った。
「本当は、貴女のそばにいたい。許されるのなら……この先もずっと。貴女とともに、生きていたいんだ……!」
「……はい」
返事をする声は滲み、吐息のように掠れてしまった。
だから梔子は、焼けるように熱い喉に力を込めて、必死の思いで言葉を続ける。
「私も、あなたと同じ気持ちです。やっと……やっと、そう言ってくださいましたね」
紅月は、泣いていた。
彼の瞳に映る梔子の顔も、いつの間にかすっかり泣き濡れてしまっている。
……思い出すのは、始まりの夜。
――月の女神もかくやあらん、白銀の髪の麗しきお嬢さん。貴女には、私の妻になってもらいたいんだ。
すべては、あの美しい夜、紅月からの求婚で始まった。
あの日、彼が梔子にしてくれたように。
今度は梔子が、彼に想いを告げる。
「あなたとともに分かち合えるのなら、苦しみの時すらも幸福です。これからも、ずっと……ともに生きていきましょう、紅月さま。どうか私を……あなたの花嫁に、していただけますか?」
言葉はもう、必要ない。
強く、強く、抱きしめ合う。
わずかな隙間すら惜しむように。
まるで、この時のためだけに、今までの互いの生があったとでもいうように。
……どこからか、手を叩く音が聞こえた。
見れば、静貴が微笑んで、二人に向けて拍手を送っている。
彼の行動を、皮切りに。
やがて式場全体には温かな拍手の音が、波打つように広がっていった――