表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
153/161

十七.婚礼の日 ―求婚― ―5


          *


冬の式場を包むのは、楽団の壮麗な音楽。

そして、この場に集った大観衆から送られる、尽きることのない温かな歓声だった。


その中央を、静貴とともに歩きながら。

微笑みを浮かべ、今日の主役を、幸せに満ち溢れた花嫁を演じながら。


梔子はただひたすらに、その時の訪れだけを待ち続けていた。


(……紅月さま)


長い、長い絨毯の道は、もうじきに終わろうとしていた。


祭壇はもう目の前だ。

冬の日差しを帯びて、婚礼の鐘が金色に輝いている。


(私は、信じています。あなたが来てくださることを。だから、どうか……)


そして。

静貴に伴われ、まもなく祭壇の前にたどり着こうとする――その時。


「下がれ! 貴様、下がらないと打つぞ!」


楽団の奏でる祝福の音色に混じり、どこからか聞こえてきたのは喧騒と怒鳴り声だった。


儀礼の場には到底似つかわしくない騒ぎに、その周囲にはどよめきが走る。


はっとして、梔子は歩みを緩めた。

思わず静貴を見上げれば、彼は梔子を見つめ返し、かすかに頷いてくる。


静貴が立ち止まるのに合わせ、梔子もその場に止まった。

すっ、と静貴がおもむろに片手を上げる。


その瞬間、楽団の演奏が止み、群衆に広がるのは戸惑いの空気だ。

騒ぎのあった方向を振り返ると、静貴はすっと目を細めた。


その先に、見たものに。


「…………!」


息が詰まった。身体が震えた。

なりふり構わずに駆け出しそうになった梔子を、けれどすかさず制したのは静貴だった。


「そこの警備員。その男を解放してやってくれないか」


ざわめきの中でも静貴の声は驚くほどによく通る。

警棒を振り上げていた警備員達は、唖然とした様子で静貴を凝視していた。


「は……? ふ、藤川殿。いったいなぜ」

「いいから。早くしたまえ」


するとようやく、警備員らは取り押さえていた男から手を放す。

それでもなお、何かあればすぐに男を抑え込めるように、彼らは警戒を解いていない。


広がるのは――沈黙。

解放されたのは、見るも無残な姿をした男だった。


だからこそ。

不快そうに眉をしかめ、静貴が口にした名に、あたりはつかの間騒然となる。


無様(ぶざま)なものだな、篁紅月。きみはここへ、いったい何をしに現れたのだ?」

「…………」


紅月を見下ろす静貴の眼差しには侮蔑がこもっている。


紅月から返事はなかった。

肩をすくめた静貴は、なおも追及をやめようとはしない。

ついにはあざ笑うような表情を浮かべ、挑発するように紅月を問いただす。


「……まさかな。まさかその惨めななりで、今さら梔子さんを返せとでも言いに来たのではないだろうな? そもそも、身勝手に彼女を捨てたのはきみだろう? まあ、仕方があるまいな。きみはもともと、腑抜けだったのだ。利き手が使えなくなった? ……はっ。それくらいのことで、きみは彼女を放り出し、無様にも尻尾をまいて逃げたのだからな!」


刹那(せつな)、あたりは大きくどよめく。

地面に這いつくばっていた紅月が、静貴に掴みかかったからだ。


警備員らが一斉に駆け寄ろうとしたが、彼らの動きは、静貴の一喝によって押し止められる。


「僕達に構うな! ……いいか、紅月!!」


どっ、と。

鈍く激しい音が鳴る。

静貴が思いきり紅月の顔を殴りつけていた。

周囲にはまたしても騒ぎが沸き起こる。

衝撃に耐えきれず後ろから倒れ込んだ紅月に、しかし静貴は一切容赦しなかった。


倒れた紅月の胸ぐらを掴んで引き起こすと、静貴は苛烈な怒りをはらんだ声で、紅月へと畳み掛ける。


「きみは、なぜ僕がここまで怒っているかがわかるか? きみがあまりにも愚かだからだ!! この数週間、きみの独りよがりな行動のせいで、梔子さんがどれだけ苦しんだと思っている!?」

「静貴さま! やめてください、お願いです! もう――」

「いいや、梔子さん! 悪いがもう少しだけ言わせてくれ! ……紅月! 僕にはまったく理解できない! なぜきみは、いつもそうして一人だけで抱え込む? なぜきみは、梔子さんの思いに少しも気づこうとしないのだ!? 梔子さんは、苦難に遭っても変わらずにきみを支えようとしていた。にもかかわらず……! 彼女の思いを踏みにじるのは、いい加減にしろ! 彼女は、きみの苦しみをともに分かち合って生きたいと、そう願っていたのだぞ……!」


それは、無秩序に騒いでいた群衆を黙らせるほどの剣幕だった。

呆然として沈黙を保つ群衆の前で、静貴の声が再び響く。


「……紅月。きみの存在なくして、梔子さんが幸せになれると。きみは本当にそう思うのか?」


すでに静貴の顔からは、蔑みの色など跡形もなく消え失せていた。

ただただ、彼は愚直に、強い眼差しで紅月に問いかけ続ける。


「立て、紅月。今度こそ、きちんと梔子さんと話すのだ。彼女はあれから、ずっときみを待ち続けていた。きみを誰より信じ続けたのは、きみが愛する彼女なのだから」


しん、と。

あたりは静まり返ったままだった。


梔子だけではない。

今や、集まった人々の視線は、倒れ込んだ紅月へと向けられている。


そして。


長い、長い、沈黙の末に。

ようやく、紅月が身を起こそうと地に手をつく。


途端によろめき、倒れそうになった紅月に、静貴は肩を貸して横から支えた。

そうして、力づけるようにして背を叩きながら立たせると、静かに身を放し、自分は邪魔にならないようにと後ろへと下がった。


……いったいどれほど、この時を待ち続けていたことだろう。


「……紅月さま」


もうずっと長い間、梔子は待った。待ち続けた。


……もう、我慢する必要などない。

目の縁が、火のついたように熱くなる。


溢れてきたもので視界が歪むよりも早く、梔子は駆け出し、思いきり紅月を抱きしめた。


「あなたは、馬鹿です……!」


責め立てる言葉を抑えることはできなかった。

紅月に何かを言う暇すら与えず、梔子は畳みかける。


「なぜ、私に一言も言わず、一人で出て行ってしまわれたのですか? 私は……私は、あなたとの離縁を認めた覚えなど、一度だってありません! なのに、どうして……どうして、あなたは……!」

「…………」


紅月に問いただしたいことは、山ほどあった。


今までずっと、どこにいたのか。

どうやって過ごしていたのか。

どうして彼は、こんなにも痩せて汚れた、ぼろぼろの姿で現れたのか。


……今、梔子がこうして紅月と再会できたのは、静貴やリリアーヌのおかげだ。

彼らがいなければ、梔子はきっと、永遠に彼と会うことはできなかった。


もし、ずっと再会できないままだったとしたら、彼はいったいどうやって生きていくつもりだったのか――


けれど、数えきれないほどあった問いは、込み上げてきた想いのあまりの熱さに、喉の奥で霧散してしまう。


やがて、唇から零れたのは、


「……会いたかった」


ただ、その一言だけだった。


「会いたかったです。ずっと、ずっと……私は、あなたに会いたかった。紅月さま。あなたは……違いましたか?」

「――……っ」


やっと紅月が抱きしめ返してくれたのは、その時だった。

息苦しくなるほどに、強く、深く。

彼は梔子を掻き抱き、血を吐くような声で告げてくる。


「……違わない」

「…………!」

「……違うわけが、ないだろう。本当は……、本当は、貴女と離れたくなど、なかった。貴女と離れている間は、今にも気が狂いそうだった。貴女にもう二度と会えないと思い知らされるたび……何度死のうと思ったか、わからないほどだった……!」


はた、はた、と肩に落ちてくるのは涙だった。

紅月も今、梔子と同じように泣いているのだと、雨のようにとめどない涙が伝えてくる。


「……梔子。私は……能無しだ」

「能無し、などと。ご自分を蔑むのはおやめになるようにと……私はあなたに、伝えたはずです……!」

「だが……本当のことだ。私は、もう二度と、以前のように描くことはできないかもしれない。貴女にきっと、苦労ばかりかけてしまう。それでも……貴女と離れて過ごすのは、もう嫌だ。……嫌なんだ」


震える声で、彼は言った。


「本当は、貴女のそばにいたい。許されるのなら……この先もずっと。貴女とともに、生きていたいんだ……!」

「……はい」


返事をする声は滲み、吐息のように掠れてしまった。

だから梔子は、焼けるように熱い喉に力を込めて、必死の思いで言葉を続ける。


「私も、あなたと同じ気持ちです。やっと……やっと、そう言ってくださいましたね」


紅月は、泣いていた。

彼の瞳に映る梔子の顔も、いつの間にかすっかり泣き濡れてしまっている。


……思い出すのは、始まりの夜。


――月の女神もかくやあらん、白銀の髪の麗しきお嬢さん。貴女には、私の妻になってもらいたいんだ。


すべては、あの美しい夜、紅月からの求婚で始まった。


あの日、彼が梔子にしてくれたように。

今度は梔子が、彼に想いを告げる。


「あなたとともに分かち合えるのなら、苦しみの時すらも幸福です。これからも、ずっと……ともに生きていきましょう、紅月さま。どうか私を……あなたの花嫁に、していただけますか?」


言葉はもう、必要ない。

強く、強く、抱きしめ合う。

わずかな隙間すら惜しむように。

まるで、この時のためだけに、今までの互いの生があったとでもいうように。


……どこからか、手を叩く音が聞こえた。


見れば、静貴が微笑んで、二人に向けて拍手を送っている。


彼の行動を、皮切りに。

やがて式場全体には温かな拍手の音が、波打つように広がっていった――





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ