十七.婚礼の日 ―求婚― ―4
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帝都でも有数の名門、藤川財閥の御曹司が、白銀のご令嬢こと八條梔子との婚姻を発表した。
その婚礼の儀式が、大観衆の見守る中、帝都内の大公園で執り行われる――
婚姻の発表から儀礼の日までに、この衝撃的な知らせについて、いくつもの新聞がさかんに報じ続けていた。
昨年から広く名と姿が知られていた梔子の結婚。
そしてその儀式が、誰もが詰めかけることのできる公園で、しかも従来のしきたりではなく西洋式に則って執り行われると発表されては、大衆の耳目を引きつけないわけもなく――
式場となる公園は、厳寒にもかかわらず、当日の朝からすでに大勢の人々が詰めかけていた。
春になれば桜の花が舞う公園も、今は冬。
周囲の木々はうっすらと白雪を被り、風が吹けば、見える景色は散った小雪できらきらと銀色に輝いて見える。
人々が取り巻いているのは、公園の中央に広々と敷かれた絨毯の道だ。
道の周囲は、赤や桃色の布でこしらえられた華やかな造花が彩っており、式場には一足先に春が訪れたかのようだった。
長い絨毯の先には、これまた造花で飾り立てた祭壇や、鐘を吊るした台がある。
「すごいもんだねえ……。外の国じゃ、結婚するとなったら、こんなはいからなお式を開くのかい?」
「父さん、あれ、鐘だよね。あんな小さな鐘は何に使うの?」
「外国じゃ儀式の後に、あれを鳴らすらしいぞ。無事に結婚できたことをあれで皆に知らせるんだ」
式場にある何もかもが、人々の目には物珍しく映るらしい。
誰も彼もが寒さも忘れ、会話に打ち興じながら新郎新婦の到着を持っている。
――と。
その瞬間、ざわめいていた式場は水を打ったように静まり返った。
しかし静寂もつかの間のこと。
今度は打って変わって、わあっと大きな歓声が上がる。
「見て、花嫁さまだわ!」
「すごい……! あんなの、見たことないわ。なんて綺麗なの――」
人々の祝福の声に混じって聞こえてきたのは、楽団の音楽だ。
絨毯の上をゆっくりと歩いてくるのは、仲睦まじく腕を組んで歩く、二人の男女――
「…………」
婚礼衣装に身を包み、頬をほのかに染めて微笑む、白銀の髪の娘を。
盛り上がる群衆の中から見つめる、一人の男の姿があった。
みすぼらしい男だ。
その髪も肌も、まとう衣服も、何もかもが汚れている。
身体は痩せ細り、擦り切れた衣服から垣間見えるのは血の滲む生傷だ。
あまりに汚れ切った風貌のせいで、周囲の人々が男に向ける視線には、嘲笑と侮蔑の色が見て取れる。
けれどその男は、周囲からの視線など、まったく意に介することもなく。
……やがて、群衆がどよめき立つ。
前列に立つ人々が振る手の間に見えたのは、真っ白なドレスにレース飾りのついた外套を羽織り、ヴェールを被った花嫁の姿――
「……梔子」
男は――かつて、篁紅月と呼ばれていたその男が呟いたのは、今日の主役、ずっと遠い場所を歩く花嫁の名だった。
一瞬だけ見えた彼女は、微笑んでいた。
隣を歩く新郎と――静貴と視線を合わせ、幸せそうに。
花嫁の姿が見えたのは、一瞬だった。
けれど。
紅月には、それだけで。
そのたった一瞬だけで、充分だった。
全身の力が、一気に抜けていく。
……今度こそ、自分の役目は終わった。
彼女の笑顔が、それをこの上もなくはっきりと、紅月に教えてくれていたのだから。
(……そうか。貴女は、静貴と……)
これが。
彼女と出会ってから、気の遠くなるほどの長い年月をかけ、紅月がたどり着いた結末。
自然と零れ出るのは、祝福の笑みだ。
この世で最も愛する娘が、最も信頼する男と結ばれた。
何の文句を言う必要があるだろう。
最善の――これが、一点の曇りのない幸福な結末だ。
(よかった。本当に……本当に、よかった)
梔子と静貴が婚姻を結ぶ。
そう聞いて、紅月はこの場所で二人を待ち続けていた。
彼女が幸せになった姿を、この目に焼きつけるために。
その目的を、果たすことができたのだ。
……これで、やっと。
やっと紅月は、すべてを終わらせることができる。
彼女に伝えることのできない別れを、心の中で告げずにはいられなかった。
(……梔子。貴女の幸せを、私はずっと、祈っている。ありがとう。……さようなら)
すべてが、終わったのだ。
これでもう、心残りなんて一つもない。
他に望むことなど、もう何も――
――そのはず、だったのに。
「――ねえ、見て!」
花嫁が通り過ぎていった道に背を向け、式場を去るために踵を返しかけた、その時。
歓声に混じり、紅月の耳に届いたのは、無邪気そのものの幼子の声だった。
「花嫁さまのペンダント、とても素敵! とっても素敵な、薔薇のペンダントなの!」