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十七.婚礼の日 ―求婚― ―3


それから、どれほど経ったことか。

気づけば夜は明け、あたりは薄明るくなっていた。

表通りの方からは、早くも物売りの声が聞こえてきている。


「…………」


目を開ける。

左手を顔の前に持ち上げて、指を動かしてみる。


白昼夢ではない。

紅月は――生きている。


かろうじて、夜を越すことができた。


……起きなければ。

何度も転び、壁に寄りかかりながらもどうにか立ち上がる。


もう何日もの間、ろくに食べることができていない。

そろそろ、身体は限界に近づいていた。

生き延びるには、何としてでも、何かを口に入れなければ。


身体は凍って思うように動かず、全身の怪我が(うず)くように痛む。

それでもわずかな賃金を求め、その日もよろめきながら路地裏を後にして……


「――ねえ、聞いた?」


ある時、ふいに聞こえてきたのは、若い娘達の会話。

かしましく噂話に興じる声だった。


「聞いたわよ。梔子さんの話でしょ? 紅月さんのことは、かわいそうだったけれど……」

「でも、いくらなんでも話が急すぎやしない? 何か裏があるんじゃ……」


ふいに彼女と自分の名前が出てくるのを聞き、紅月ははっと息を呑んで立ち止まる。


本当は、もっと話を聞きたかった。

けれど浮浪者も同然の今の姿で娘達に話しかけようものなら、不審人物として警察に突き出されかねない。


後ろ髪を引かれる思いで、紅月はその場を通り去る。


――篁紅月が利き手を壊し、婚約者を親友に託して行方をくらました。


しばらくの間、世間がずいぶんと騒ぎ立てていたことは、紅月自身も噂で聞き知っていた。

紅月が手紙で頼んだ通り、静貴が彼女を引き取り、後見役を引き受けてくれたことも。


……それにしても、と紅月は思った。

娘達は、妙に高い声で噂話に興じていた。


紅月の失踪が話題になったのは、記憶が確かならばもう半月も前だ。


人々の関心というものは、あっという間に薄れ去っていくもの。


あれから、何かがあったのでなければ。

娘達があんなにも声を弾ませ、梔子や紅月のことを話題にするわけがない――


行く先から叫び声が聞こえてきたのは、その時のことだった。


「号外! 号外―――!」


風が吹き、電線や屋根に被っていた雪が舞い散る。

雲間が晴れ、雪を透かして、思わず目を細めてしまうほどに眩しい光が差してくる――


寄せ来る人波に身を隠しながら、紅月は必死に手を伸ばした。

やがて掴み取った新聞紙を抱え、大勢の人々でごった返す往来を抜け、路地裏へと向かう。


いつのまにか、痛いほどに心臓が早鐘を打っていた。

震える手で新聞を広げ、大見出しに記されていた文字に、世界のすべてが止まったような衝撃を受ける。


――その日。

突如として打ち出された号外は、帝都を大きく賑わすことになった。



『梔子嬢 (つい)に結婚』


昨年、大いに社会を感動せしめた白銀のご令嬢が、今冬遂に婚姻を結ぶことが明らかとなった。

相手となるのは、藤川(ふじかわ)財閥御曹司にして、藤川家具(株)社長を務める静貴氏(二九)。

氏によればこの婚姻は、悲劇の絵師、篁紅月氏の意志によるものとのことである――


         *


婚礼の日は、晴天に恵まれた。

硝子窓を通して注ぐのは、明るく澄んだ冬の日差し。


ここは藤川邸の一階にある洋室。

部屋の中では、リリアーヌをはじめとして、何人もの使用人達がせわしく働きまわっていた。


彼女らの中心には――


「……ええ。これで今日の主役の完成だわ。うふふ、我ながら完璧ね……。これでどうかしら、梔子?」


鏡越しに梔子に目を向けてくるのは、満足げな笑みを浮かべるリリアーヌだ。

リリアーヌの周囲で、使用人達も晴れやかな表情を浮かべている。


――ついに、この日がやってきた。


「ありがとう、リリィ。それから、皆さんも……」


朝早くから身支度を手伝ってくれた皆に礼を言い、改めて梔子は目の前の大鏡を見つめる。


そこには、純白のドレスをまとった梔子の姿が映っていた。

ふんわりと広がる裾には細かな宝石が光り、繊細な花の刺繍が施されている。

見たこともないほどに美しく、特別感のあるドレスだ。


――今日、この日。

梔子は静貴の花嫁として、婚礼の儀式に臨むことになる。


「おめでとうございます、梔子さま。とってもお綺麗ですわ。本当に、まるで、天女さまのようで……」

「まさか、梔子さまが静貴さまの奥さまになってくださるだなんて……。私達も、とても嬉しいんですのよ」


女中達が口々にかけてくれるのは祝福の言葉だ。


外から扉が叩かれる音がしたのは、それからしばらく経った頃のことだった。


顔を出したのは、きびきびとした印象のある年配の使用人だ。

かしましかった使用人達が一気に静かになったところを見るに、彼女は使用人達をまとめる立場にある者なのかもしれない。


「失礼いたします。梔子さまのお支度はお済みかしら。あら、そのご様子でしたら、もう大丈夫ですわね。とてもよくお似合いですわ」

「秀さん。何かあったんですか? ご出発まではまだお時間があるかと……」

「静貴さまが梔子さまとお話しになりたいそうです。皆、部屋を出られるかしら。……ああ、そうでしたわね。リリアーヌさまは、ここに残っていていただきたいと言っておられましたわ。かまわないかしら?」

「ええ、もちろんよ。みんな、お手伝いをありがとう。すぐに静貴を呼んでもらっていいわ」


リリアーヌがそう言うと、使用人達は梔子に微笑みかけながら、次々と部屋を出て行った。


まもなくして、再び扉が叩かれる。

返事をすると、部屋に入ってきたのは静貴だった。


「失礼する。……どうやら、準備はできたようだな」

「来たわね、静貴」


真剣な面差しをした静貴は、白い洋装に身を包み、左胸に小さな薔薇を飾っていた。

花嫁のドレスと対になる、まごうことなき新郎の服装だ。


……きっと部屋の外にいる使用人達は、今頃静貴と梔子が互いの晴れの姿に見とれつつ、和やかに会話に打ち興じているものと思っているだろう。


けれど、リリアーヌを交え、三人で突き合わせているのは、これから婚礼の儀式を迎える者達とは思えないほどに張り詰めた顔だ。

それはまるで、これから赴くのが、生死をかけた戦いの場だとでも言わんばかりに。


口火を切ったのは、静貴だった。

静貴は小さく息をつくと、梔子にまっすぐに視線を向けて言う。


「いよいよだ。いよいよ今日、すべてが決まる。心の準備はできているか、梔子さん」

「……はい」


頷くものの、先ほどからずっと、心臓の鼓動は速まったままだ。


……本当は、怖くてたまらない。


必ず、紅月を見つけ出す。

そう決意してから、梔子達は今日のために時間をかけて準備を進めてきた。

覚悟も決めていたはずだ。


けれどどうしても、気を抜けば恐ろしい考えに引きずり込まれてしまう。


もし、失敗してしまったら。

もう二度と、紅月に会えなくなってしまったら――


「……梔子さん」


すると、静貴が急に名を呼んできた。


はっとして顔を上げれば、彼は言った。

彼が浮かべているのは、どこかやるせなさの滲む、ほろ苦い表情だ。


「今日のきみは、とても美しいよ。皆から祝福される、純白の花嫁、か。……本当なら、今のきみの姿は、奴に一番に見てもらいたかったのだがな」

「あら、静貴。今日はなんだか弱気ね。梔子が結婚するとなったら、梔子の晴れ姿を見るために、紅月は必ず来るはず……。僕はどんな時でも友を信じる、って。毎日毎日、飽きるくらいそう言っていたのはどこの誰だったかしら?」

「それはそうだが……僕にだって不安はあるのだ。リリアーヌこそ、なぜそこまで強気でいられるのだ? これは、危険な賭けだと。僕の記憶が確かならば、はじめにそう言っていたのはきみではなかったか?」

「そうだったわね。……でも、だんだんと、わたしはそこまで不安には思わなくなったの。だってわたしの知る紅月は、いつだって梔子のことを、誰よりも大切に想っていた。他の誰でもない、自分が梔子を幸せにしたいと願っていたのよ。きっと紅月なら、自分の本当の気持ちに気づいてくれるはず。こんなくらいで負けるほど、紅月の気持ちは生半可なものじゃないはずだわ」


そこでリリアーヌは微笑みを浮かべ、梔子に目を向けてくる。

「そうでしょう?」とでも問いたげに。


すると、リリアーヌは何かを思い出したように目を大きく瞬かせて言った。


「いけない。一番大事なものを忘れるところだったわ。……これを、梔子」


リリアーヌが取り出したのはペンダントだ。

薔薇が一輪、刻まれたペンダント。


――私には、あなただけ。

そう想いを込めて、かつて紅月が梔子に贈ってくれた宝物だ。


透き通るように白いヴェールに、ドレス。

白一色のその装いの中で、淡い紅色をしたそのペンダントは、誰の目にも際立って見える。


(紅月さま。私は、信じています。本当は、あなたも……私と同じ思いを抱いてくださっていると)


心の中で、梔子はここにいない彼に語りかける。


(……〈私には、あなただけ〉。これがあなたにお見せする、私の覚悟です。だから、どうか)


どうか、気づいて――


そしてついに、その時は訪れる。


「失礼いたします。静貴さま。梔子さま。お時間になりましたので、ご移動を」

「ああ。今向かおう。――さあ、梔子さん」


静貴が先に歩き、梔子に手を差し出してくる。


……きっと、大丈夫。


もう一度、ペンダントを握りしめると、胸に巣食っていた不安はもう消えていた。


「はい」


しっかりと、静貴の手を取る。

もう、迷うことはない。


瞳に静かな決意を湛え、前を向き、梔子は一歩足を踏み出した。


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